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第87話 大人
質のいい木材は最近少なくなってきてるっていうのは知ってた。
そっかぁ、ってくらいにだけ思ってた。
林業で山の自然が健全に保たれるっていうのは知らなかった。なんとなく、勝手に、山って手入れなんて必要ない、そのままで上手くいってるものだって思ってた。林業で木の間引きをしないといけないなんて。それによって下の地面まで日差しが差し込む。日差しがあれば新芽やまだ若い木が成長して生い茂る。そうすれば、新芽や生育の良い木の実を主食にする動物たちが集まってきて、またそこから、土に栄養が。養分たっぷりな土があればまた植物がよく育って……なんて、理科の授業で聞きそうな「循環」が形成されている。その一旦を林業が担ってる。
そんなすごい仕事だなんて、知らなかった。
「手入れのされてない森は見ればすぐわかるよ。木の幹がひょろひょろに細くて、上部にだけ枝がついてる。で、その木の下は大体薄暗くて、寒いんだ。そういうところは根もしっかり付いてないから、土砂災害の危険性も高まるし。土の循環も良くできてないから枯れてるんだ。植物だけじゃなくて、土も」
原さんがそこで、遠くへ目を向けた。その先には、ここから見たら、緑が生い茂ってるようにしか見えない山だけど。原さんには別のことが見えてるのかもしれない。
「あの、ここは?」
「ここはもう俺が手入れ始めて長いから」
「そう、なんだ」
そして、桜介さんがぐるりと上空を見上げて、差し込んでくる日差しに目を細めた。ちゃんと光が地表に届いてる。そして、俺たちのいる地面にはちゃんと草木が生い茂ってた。目線を自分の頭くらいの高さに移せば、一メートルちょっとくらいに成長した若い木がいくつもあった。
「すごい……」
「けど、こうして循環ができるようになるには数年かかる。かといって成り手も少ない仕事だからさ」
「うん」
「給料安いし、危険だし」
「お給料は安いかもしれないけどすごい仕事だと思います。原くんのお仕事」
確かに、すごいって思う。
まだふわふわと遊んでることの多い大学生の俺の何倍も。
「さて、それじゃあ、木の剪定をちょっとしてみたいんで、少し奥に進みまーす」
「あ、はいっ」
「えぇ、ここより奥行くの?」
「ほら、稲田っも頑張ろうよっ」
「えぇ? 俺、昨日接待飲み会だったんだってぇ」
なんか、さ、みんな、すごいよ。
個性もセンスも光る建築を生み出せて、自分のアトリエもある伊倉さんはすごいし。
大変な仕事だろうと、給料関係なく、環境とか将来とか考えてる原さんもすごいし。
接待の飲み会だって、なんだったらすごい。
もちろん桜介さんだって、倉庫の管理、大変なことだってあるはずだけど、頑張っててすごい。
大学生の俺には――。
「すごいね」
「……桜介さん」
「翠伊くんがなりたい建築の仕事ってなんかすごいなぁ」
「……」
まだ、なれてないし、まだ、全然。マジでただのふわふわした大学生だよ。
それに、今までは、そこまでちゃんと将来プランがあったわけじゃなくて、まだ社会人としての輪郭だってぼやけたままでさ。仕事、かぁ……とかぼんやり考えるくらいで。
「応援、してますっ」
「桜介さん」
アトリエを持つなんて、まだまだ夢のまた夢ってレベル。
「けど、俺は全然」
伊倉さんや原さんとかには全然さ、手っていうか、背っていうか、届いてない。あんな高いところで仕事とか自分のこと、その周りのことまでなんて考えてない。
まだまだのんびりとした、未熟――。
「そんなことないよ」
未熟なガキでしょって思うところを、桜介さんの言葉が遮るような言葉だった。
「翠伊くんが建築の話してくれる時、すごくかっこいい」
「……」
「だから、今日、こうして連れてきてくれて嬉しかった」
シュッて遮って、別の言葉を俺の中に浮かべてくれる。
「その、伊倉さんも、だから林業体験勧めてくれたんだと思うよ。僕も林業っていうものが、こんなに大事で、とても役に立ってる仕事って知らなかった。あ、あと、良い木材が今は貴重って言うのも知らなかったよ。翠伊くんから聞くまでは」
「……」
「ふふ」
桜介さんの笑顔って、特効薬みたい。はぁ、って溜め息つきそうになる俺に、そうじゃなくて深呼吸をさせてくれる感じ。
「一緒に連れてきてくれてありがとう」
まだまだのんびりとした大学生だけど、少しずつこれから、あんなふうになりたい。
「ありがとうって言うのこっちだよ」
「?」
まだなれてないだけ。なりたい。今じゃなくて、今、学んだことを活かして、いつか、なりたい。
そんな言葉に変えてくれる。
「桜介さんはすごいよ」
「? えぇ? 僕はちっとも」
謙遜してくれるこの人に口元が緩む。
「!」
そんな俺を見て、桜介さんが頬を染めて、肩をすくめて、それから、柔らかく笑ってくれた。ちょうど、木々の隙間から差し込んだ柔らかくて、清々しい日差しにその笑顔が照らされて。
「あと、転ばないように気をつけて」
「は、はいっ」
「今度は木の枝に吊り上げられちゃうから」
「えぇ? 僕、そんな、不器用なような、器用なような……」
「あはは」
その笑顔に、若葉を照らす日差しに、気持ちがほわりと温かくなった。
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