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第90話 柴犬なのか、カワウソなのか。

「いらっしゃいま、っせ」  つい、ぎゅっと眉間に皺を寄せたら、お店に入ってきたお客さんが「え?」って目を見開いた。 「すいませんっ」  ぎこちなくお出迎えに向かうと、お客さんに大丈夫? って声をかけられた。そしてもう一回すいませんって答えて、ぎこちないまま、女性二人を手前のテーブルに案内した。 「大丈夫か? 翠伊」 「大丈夫っす」  ギコギコ。音がしそうな歩き方で、今日のお通しを女性客二人へ届けて、またギコギコって音がしそうなほどぎこちない歩き方でカウンターへ戻ってく。  昨日は土曜日で、今日は日曜だから、居酒屋のバイトの日。  昨日の林業体験の直後は足がダルいだけだったけど。悲劇は今朝起きた。  ――大丈夫っ? 翠伊くんっ!  筋肉痛でベッドから出るのにめちゃくちゃ時間がかかった。太ももがマジでやばくて。普段、居酒屋のバイトは自転車で行くんだけど、今日は漕ぐ自信がなくて、ちょっと面倒だけど歩きと電車にしたくらい。  けど桜介さんはマジで仕事で慣れてたみたいで、筋肉痛になることもなくスッと起きてた。んで、稲田さんから絶叫メッセージが届いてて、あはは、なんて笑ってた。  稲田さんは今日は一日中、寝て過ごすことにしたみたい。全身筋肉痛でもう限界だって言ってた。 「筋肉痛のとこ悪いな、これ、奥のテーブル」 「っ、はい」  ギコギコ。  またぎこちなく歩きながら。こんなに筋肉痛になるってことは原さんの毎日の仕事がどれだけ大変かってことで。けど別に、俺もこのくらいは耐えるし。そう一人で勝手に原さんとの我慢比べをしながら。 「じゃあ、てんちょー、俺、上がります」 「おー、お疲れ。足、痛いのにありがとな。あ、そうだ」 「?」 「これ、お土産、あまりだけど」 「! やった。あざすっ」  店長がビニール袋で手渡してくれたのは、自家製いぶりがっこ入りのポテサラとジャーマンポテト。 「どっちもポテトだけど」 「全然! ありがとうございます」  やった。あとは、じゃあ、帰りにパン買っておこう。そしたら、朝飯になるし。桜介さん、まだ起きてるかな。連絡したら――。 「あ」  その桜介さんからメッセージが来てた。  ――アルバイト、お疲れ様です。筋肉痛は大丈夫ですか?  そんな労いのメッセージ。  大丈夫じゃなかったけど、大丈夫、そうスマホに打ちながら居酒屋を出て、いつもは自転車だけど、今日は電車だから駅へと向かって歩き出した。  ――店長からポテサラとジャーマンポテトもらった。  どっちもポテトだけどって打って、明日の朝飯にって、打とうと。 「翠伊ぴ」  思った。 「……リナ」 「こんばんわー」 「うん」 「えへへ、今日は日曜日だからバイトでここにいるなぁって思って」 「あ、うん」 「って、何、その歩き方、っていうか、自転車じゃないの?」  ギコギコと歩いてると首を傾げてる。 「筋肉痛」 「あはは、なんで? ウケる」  ウケません。けっこうマジでしんどいんだって呟くと、また笑ってる。特に階段がマジできついんだ。そうぼやくと、じゃあマンション四階できついじゃんって。 「どうかした?」  昔、付き合ってた頃、たまにこうして来てたっけ。どこかでリナは女友達と飲み会で、俺がバイトが終わるタイミングの頃に店まで来てさ。一緒に帰ったりしてた。 「あー、春休みで、旅行行ってきたの」 「へぇ、そうなんだ」 「うん。んで、これお土産」 「わざわざ?」 「うん。日持ち、あんましないから」 「ありがと」  一瞬、ほんの一瞬、目を見開いたように見えた。  けど、それは本当に一瞬で、すぐにいつものリナの笑顔に戻って、紙袋をぎゅっと握った手を俺の前につき出した。 「ちょっとカットしないとだから食べるのは面倒かもだけど」 「あ、うん?」 「ロールケーキ。めっちゃ美味しいから」 「ありがとう」 「いいえ」  中を覗くと、見るからに高そうな、上品な紙のボックスが入っていた。 「…………リナ?」 「?」 「駅、行かないの?」 「あ、うん。って、いいの? 一緒に行って」 「なんで? 俺も今日電車だし」 「ぁ……うん」  この時間なら電車混んでないから潰れることもなさそう。満員の電車じゃ気を使いそうだけど。  桜介さん、甘いの好きだから、ありがたいって呟いて、ロールケーキだからそんなに気にしなくてもいいんだろうけど、そっと慎重に紙袋を手にぶら下げる。  ――それから、大学の友だちがわざわざ来てくれて、今、ロールケーキももらったよ。  歩きながら、そうメッセージを送った。  あ。  やった。  まだ桜介さん起きてた。  ほら、嬉しそうに飛び跳ねてる、柴犬のスタンプを送ってくれてた。 「あー、今も、あのお隣の人と付き合ってる?」 「? うん」 「そっか。すごい、春休み、どっか二人で行ったりしたの?」 「あーいや、全然。向こうは仕事だから」 「そっかぁ……」 「ありがと。めっちゃ、喜んでる。柴犬のスタンプ」 「?」  今度は柴犬が三匹並んで、大喜びのスタンプを送信してくれた。 「翠伊ぴ、これ、柴犬じゃなくて、カワウソ」 「えぇっ? 犬でしょ」 「カワウソだってば」  そして、もう一度、今度は、俺にはどうしても柴犬にしか見えないそのキャラクターが「おかえりなさい」って深々とお辞儀をしてくれるスタンプを送ってくれた。  そのキャラクターの周りに花がパッと広がって咲いてたから、なんか、楽しそうで。 「柴犬でしょ」  あとで、帰ったら、桜介さんにも訊いてみよう。柴犬なのか、カワウソなのか。  それを理由に、夜遅いけど会えないかな、なんて考えてた。

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