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第95話 神がかりワンシーン
リナに初めて名前だけで呼ばれた。
いつも翠伊ピって、友だちだった時から彼氏になった時も、そのあと、また友だちに戻ってからも、ずっと。
「桜介さん、っていうんだ。あの人」
マンションの階段とかですれ違ってて、リナは桜介さんのことを知ってた。もしかしたら、俺が桜介さんのことを認識する前からずっと知ってたのかもしれない。
「翠伊、の付き合ってる人」
俺を意識している桜介さんを。
「そうだよ」
いつも笑っていて、いつも明るくて、いつも誰かが隣にいるリナ。
でも、今は笑ってなくて、あの跳ねるような笑い声もなくて、こんな声だったっけって思うくらい、静かな声で、たった一人で。
「でも、あの人、男の人じゃん」
「……そうだよ」
「ねぇ、いつ戻んの? いつまであの人といるの? ずっと?」
そうだよ。
「結婚、みたいなこと? 社会人になっても? 他、行かないの? 来年もあの人といんの? 将来、みたいなとこまで続くの? 来年とか、卒業した後とかも、一緒にいるの?」
「……」
「今、付き合ってる人、でしょ?」
今、かぁ。
「ずっとこの先もあの人と、」
「考えたりしてるよ」
リナが、いつもニコニコしている口元をキュッと結んだ。
「考えてる」
でも、今までは考えたことなかったな。誰かと付き合っていても、来週の予定は楽しく話したけど、来年のその時期にその時付き合ってた子とどうしてるんだろうは、考えたこと、なかった。
卒業する時に、その子が隣にいる光景も。次の新しい生活が始まる時にどうしようかとかもあんまり考えたことなくて。
それは俺が大学似通いながら、「建築士」の仕事を漠然とイメージしてるのと同じくらい。不透明な光景。まるで曇りガラス越しに眺めてるみたいに、ぼんやりとしてた。
リナと付き合ってた時も、そうだった。
「わかんないけど」
「! じゃあっ、戻りなよっ、だって、翠伊、ゲイじゃないじゃんっ。男同士とか否定するとかじゃないけど、でも、今回だけでしょ? この先も、あの人といんの?」
「いたいなって思ってる」
「!」
今も変わらない。将来とか未来とか、来年のことすら、まだ曇りガラス越しみたいにぼやけてる。
「今回だけだと思うよ」
「……」
「きっと、同性を好きになるのは。けど」
曇りガラス越しだけど、それでも思ってはいるんだ。こんな大人になりたい。こんな仕事がしたい。こんな毎日を送りたい。
「もうきっとこれから別の人を好きになることもないと、思う」
そんな、将来の自分、曇りガラスの向こう側にいる自分の隣には、桜介さんがいて欲しいって、めちゃくちゃ願ってる。
隣にいてよって、めちゃくちゃ思ってる。
「だから、ごめん」
「やだ」
「!」
「私、翠伊のこと本当に好きなのにっ。女の子で、ちゃんと翠伊の恋愛対象の性別で、それに、一緒にいて翠伊も楽しそうに笑ってたじゃん。今はあの人といるのが楽しいかもしれないけど、今だけだよ。きっと、絶対。だって、これから一生、だよ? そんなのわかんなくない? これから何十年とか、わからなすぎじゃない? そんな先まで、もうずっと一人で終わりって決めるの、無理じゃない? だから、私、待っ」
「わからなすぎだけど」
リナがそんなふうに泣いてるの初めて見た。けど――。
「でも、あの人、一人だけでいいんだ。あの人で終わり、じゃなくて、桜介さんとずっとがいい」
けど、ごめん。
「そのくらい、好きなんだ」
リナの気持ちには答えないし、あの人からそっぽを向くこともない。
「桜介さんのこと」
「……」
「だから、ごめん」
リナの涙がぽとって落っこちたけど、俺はそれにハンカチは渡さず、引き返したりはしないで、そのまま立ち去った。
心からごめんって思うけど、優しくは、しなかった。
俺はそのまま桜介さんを迎えに、向かった。
この辺り、だよね。
店の名前は聞いたから、あとはスマホで調べて、近くのカフェで時間潰してよう。あるかな。カフェ。って、あ、この辺りだ。雑居ビルの一階だった。小さなイタリアンのバーで――。
「……ぁ」
あった。桜介さんが同窓会で参加してるイタリアンのお店。じゃあ、ここに来るまでで見つけたカフェで時間を潰そうかなって思った。
「林田!」
カフェの名前は見なかったから、コーヒー飲んでますって、メッセージを綴って送ったところだった。よく知っている苗字を呼ぶ低い声が耳に飛び込んできた。
「二次会、行かねぇの?」
それは原さんの声。
「ぁ、うん」
次に聞こえたのは柔らかい、桜介さんの声。
それはまるでドラマのワンシーンみたいだった。繁華街で、あっちこっちですごく賑やかな声がしてる中、そこだけ別世界みたい、切り取ったみたいに雰囲気が違ってる。
「せっかくだし、二次会」
男はずっとその人のことを思ってた。今日、その何年も抱えてた思いを打ち明けようとしてる、今、まさに。
「ぁ……えっと」
相手は戸惑ってた。二次会に行かない自分をどうしてわざわざ引き留めに来たのだろうと困惑してる。だって、その人は自分の初恋の人だから。
そんなワンシーン。
俺は、そうだな、あの困惑している人に今、思いを寄せてる、横恋慕の奴、かな。
ちょうどそんな感じ。王道だけど、神様のえこひいきがなければ成り立たない、視聴者が一番ドキドキワクワクするワンシーン。
「なぁ、林田」
「?」
「あのさ、俺っ」
俺はそんなシーンの欠片のひとつみたいだった。
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