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第97話 特別な日にしませんか?

「気が気じゃなかった」  帰り道、そうポツリと呟いた。もう桜も散っちゃった。初夏、って感じ。確か天気予報でも今日はすごく暑くなるって話してたよ。  まだこれから梅雨もあるはずなのにさ。昼間はけっこう暑くて。ちょっと日差しはジリジリしてた。まだ陰の色はそこまで濃くなってはいなかったけど。  すごいよね。  まだ、桜介さんと親しくなったばっか頃は寒くて、コート着てたのにね。  会社の飲み会に参加してた桜介さんを思わず追いかけた時、バイト中だったから半袖でさ。繁華街で一人すっごい元気な奴みたいになったっけ。その時、マフラーを貸してくれたんだ。  そのくらいまだ寒かった。  あの頃の俺だったら、どうしてたかな。もっと慌ててたかな。いや、今も十分慌ててたけど。  あの頃の俺はまだ、将来のことも漠然としてたし、まさか自分もちょっとだけ「アトリエ」を持つことに意欲を持つとは思いもしなかった。 「原さんがさ」 「……」 「桜介さんのこと、好きだって、知ってたから」 「!」  今年、梅雨あんのかな。  なんかこのまま夏になっちゃいそうなくらいだよね。 「この前の林業の時に言われたんだ。告白してもいいかって。ほら、稲田さんが疲れたって片付けの時騒いでて、桜介さん手伝ってあげてたじゃん。あの時」  その黒い瞳を大きく見開いて。 「思いっきり断ったけど」  それでも、まぁ、告るよね。ずっと思ってたんだからさ。こんな機会、絶対に逃したくないでしょ。 「じっとヒヤヒヤしてた、取られちゃうんじゃないかって」 「そんなっ、取られるなんてっ」 「初恋、じゃん」  大事そうに話してた。淡い思い出なんだろうって思ったよ。 「でもっ」 「好きって言われたら、どうなっちゃうかわからないでしょ」 「わかるよ。僕は、翠伊くんが」  ちらりと横を歩く桜介さんの表情を確かめたら、真っ黒な瞳を真っ直ぐに俺へ向けて、じっと黙ってる。真っ黒で毛先がくるりと跳ねた前髪が、柔らかな風にひらりと揺れた。 「それに、それは、僕の方だよ」 「……」 「ずっと、今日、翠伊くんが誰かに取られちゃうんじゃないかって、ヒヤヒヤしてて、スマホが気になって。カーディガンのポッケに入れてたけど、ずっとそこに意識がいっちゃって」  あ。 「束縛、なんてしたくないのに、飲み会だって楽しんで欲しいのに」  さっき、ぎゅってカーディガンのポケットを握ってた。緊張からそうしてるのかと思ってた。身構えるっていうか、ドキドキして、手に力が入ってるんだと思ってた。  でも違った。  あの中にはスマホがあったんだ。  もしかして、今かな? あれ? 振動した? 連絡あった? あぁ、ないや。まだ飲んでるよね、ってずっと気になって仕方なかった? 振動してないはずのスマホが手の中で暴れ出したような気がして何度か見てみたりした?  俺と同じように。  チラチラと視線がスマホの画面を気にかけてた俺みたいに。 「翠伊くんには友だちだってたくさんいて、同じ年代の人たちとも楽しく過ごして欲しいって思ってるけど、でも、きっとその中に翠伊くんのことを好きな子もいて」  そう思うと、落ち着かなくて……と呟いて俯いた。そんな桜介さんを笑わせようとするみたいに、柔らかい風がまた黒い髪を揺らしてる。 「女の子が……」 「そんなの」 「わからないでしょ。だって、そもそもは翠伊くんの恋愛対象に僕は入らないはずだから」 「わかるよ。俺が好きなのは」  二人して同じようなことを心配して、同じように心配しなくていいのにって思ってて、同じように、ソワソワうろうろしてた。 「めちゃくちゃ相思相愛じゃん」 「!」 「他、入る隙間なくない?」 「!」  きっとないよ。誰も絶対に入れないと思う。そう自信満々に笑って見せると、桜介さんの瞳がキラキラ輝いた。 「ないでしょ」  キラキラ、宝石みたいに。 「ね、桜介さん」 「?」  俺の、です。この宝石は。なんちゃって、さすがにそれはドラマのセリフすぎるよね。 「今日は誕生日じゃないし、付き合った記念日とかでもないけど」  強いていうなら、今日の最高気温が夏日レベルで、観測史上初、最速初夏日、になったことくらい? あとは、そうだな俺が好きな子の気持ちを聞いて、泣きそうになったことくらいかな。でも、これはダサいから内緒にしておこう。  あとは、美味しそうな肉だれレシピを教えてもらったから。レシピが一つ増えた記念。っていうのは流石に些細すぎて特別枠にするのはおかしい?  とにかく、何か特別、な日ではないけれど。 「今日は特別な日にしませんか?」  記念日の名前、タイトルは後で決めることにして。 「ぇ……?」 「特別な日、に」 「!」  ほら、また、キラキラ、キラっ。貴方の瞳がパッと星をヒラヒラ瞬かせてる。 「は、はいっ、します! 特別な日に、します!」  それでは満場一致で今日は特別な日に決定しました。特別な日は、あれ、してもいいから。 「じゃあ、早く帰ろうか」 「う、うんっ」  だから早く帰りましょう。  そして俺たちは手をしっかりと握って、家路を急ぐことにした。

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