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第3話

迅の家は明治後期に創業された日本を代表する企業の一つで、現在は父が会長で、母がCEO、歳の離れた姉が専務を務めるというバリバリの同族経営だ。 三人ともハーバード大学出身という超エリートで、迅も幼い頃から英才教育を受けて育った。心海家の長男ということもあって、どこに行っても注目された。 迅は優秀な子どもだった。それでも、どれだけ努力しても、両親や姉ほどの優秀さには届かなかった。 些細と言えば些細に思えるそのことは、迅の初めて経験する挫折だった。幼稚園から高校まで一貫教育の進学校を途中でドロップアウトし、高校は地元の公立高校に通った。 父親はそのことについて何も言わなかった。自分は父に見限られたのだと思った。もう誰も迅に期待しない、誰も迅を気にかけたりしない、そう感じた。 はっきり言う。宗方先生と出会った頃の迅は腐っていた。 中学までは男子校だったが、高校は共学だった。迅はその容姿と家柄が相まって、モテにモテた。 彼女は取っ替え引っ替えどころか、常に三人以上同時進行。 ある日、そのうちの一人が迅に生理が来ないと泣きついてきた。 『なんでちゃんとアフターピル飲まなかったんだよ』 迅が彼女に放った言葉はそれだった。それがどういうわけか、宗方先生の耳に入ってしまった。そして……、 迅は宗方先生に殴られた。 昔はともかく、教師の生徒への体罰は下手したら懲戒免職にもなりかねない大事件だ。宗方先生は自分の教師生命をかけて、迅を叱ってくれたのだ。親にも殴られたことのなかった迅は、ただただ驚いた。 それをきっかけに、迅は宗方先生とよく話をするようになった。宗方先生はすぐに迅の心のささくれに気づいてくれた。 『おまえのことは俺が見守ってやる。だから自信を持って歩け』 宗方先生にそう言われたとき、迅は不覚にも泣いてしまった。自分でも気づかないうちに蓄積されていた頑なな悲しみが、涙と共に溶け出した瞬間だった。 『教師は生徒に勉強を教えるだけじゃない、人間を教えるんだ』 そんな宗方先生を尊敬し、憧れ、いつしか迅は自分も宗方先生みたいな教師になりたいと思うようになった。 大学は教育大学に進みたいと言うと、それまで迅に無関心のように思えた父は猛反対した。高校の三年間を好きにさせたあとは、大学はハーバードとまではいかなくとも、海外でMBA(経営学修士号)を取らせるつもりでいたらしい。 父に見放されたのではなかったと知り嬉しかったが、迅の決心は固かった。それならば家を出て、自分で学費も生活費も稼ぐと開き直った迅に、宗方先生はそれは最終手段だと迅を押し止めて父親に掛け合ってくれた。 あれは年末の寒い日で、雨が降っていた。宗方先生は迅の父親に、迅の夢を摘み取らないでやってくれと、濡れた地面に手をついて土下座したのだった。 父も伊達に大企業のトップではない。人を見る目はあるのだ。 『あんな男が教師というのなら、教師という職業も悪くないのかもしれないな』 父は迅に教師になることを許してくれた。そしてこのとき、父は迅にこう言った。 『教師になるなら、日本一の教師になれ』 その後、笑いながら、優秀な人材をたくさん育てて将来うちの会社に入社させろ、と付け加えた。 あのときの泥水で汚れた宗方先生の手を、迅は今でも忘れられない。
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