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第10話
腕時計を見て、あと五分で帰ろうと思った。もうこれ以上、身体も頭も疲れることはしないぞ。迅は投げやりに布団の中の水瀬に語りかけた。
「何か先生に聞きたいことはないか? なんでも答えるぞ、恥ずかしいことだっていいぞ。初体験はいつだったとか、自分でするときのおかずは何かとか」
もうヤケクソだった、どうせ返事は返ってこないのだ。
沈黙が落ちる。
迅は腕時計に視線を落とした。
一分、二分……。五分も待つ必要はないかもしれない。カップ麺だって三分で出来上がりだ。そして今夜の夕食もカップ麺、けど明日は絶対他のものを食べてやる。
――よし、三分経過!
迅はなんだか晴れ晴れした気分で椅子から立ち上がった。自分はやるだけやったのだという達成感さえあった。
ドアに向かって歩き出そうとしたそのとき、ぼそっと声がしたような気がした。振り返って耳を澄ましたが何も聞こえない。
気のせいだったのか? しかし、扉に手をかけようとしたとき、今度ははっきりと布団の中から声が聞こえてきた。
「どうして……あい……こん……おそ……の」
声がこもって聞き取りづらかったが、迅にはこう言っているように聞こえた。
どうして会いに来てくれるのが、こんなに遅かったの?
ドンと胸を殴られたような衝撃が走った。
相手はまだ十七歳の子どもなのだ。病気がちで留年し、新学期になっても学校に行けず独り病室で寝ているのはどんなに心細いことだったろう。
新担任は顔を見せず、クラスメイトたちはどんどん新しい環境に馴染んでいく。ただでさえ一つ歳上で気後れするのに、自分だけ取り残されていくようでさぞかし不安だったろう。
彼が初日に『帰れ!』と迅に言ったのは、気持ちの裏返しだったのだ。本当は迅が会いに来てくれるのをずっと待っていたのだ。
それなのにいつまで経っても迅が来ないものだから、自分は忘れられてしまったのだと思ったに違いない。
顔も合わせたことのないクラスメイトはともかく、担任の迅だけは彼のことを忘れてはいけなかったのだ。
少し考えれば分かることなのに、なぜ自分は水瀬のそんな心境を慮ってやれなかったのか。可哀想なことをしてしまった。てんで担任教師失格だ。
迅はストンと椅子に腰を下ろした。
「ごめんな。俺、まだ新米教師で今年が初めての担任なんだ、毎日がてんてこ舞いで忙しかったんだ、って言い訳にならないよな。本当にごめんな」
他にもまだいろいろ言えたが止めた。宗方先生だったらこんなとき、言い訳はしない。
しばらく静かだった布団の中から、再び声が聞こえてきた。
「明日も、また来てくれる?」
迅は目を見開いた。
――か、可愛い。
今まで自分に毛を逆立てていた猫に、突然すり寄られた気分だった。
「来るとも、明日も明後日も、これからも毎日来るよ」
もう一人の自分が、イヤイヤちょっとそれはキツイだろ、と忠告する。
布団がもぞもぞ動いたと思ったら、水瀬が顔を出した。
「本当?」
ガラス玉のような瞳に血管が透けそうなほど白い肌。全体的に儚げで、ああ、やっぱりこの子は桜の精だ。とてつもなく綺麗で……、
「本当だとも」
水瀬は顔をくしゃっと崩して微笑んだ。
――か、可愛い。
なんだこのヘビー級のパンチを喰らったような破壊力の笑顔は。
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