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第11話

それから、迅の病院通いが始まった。 「先生、僕、またあの緑色のぶどう食べたい。先生が初めてお見舞いに来てくれたときに持ってきてくれたやつ」 迅の頭に浮かんだのは、病室の窓から落ちてきた一粒のぶどうだった。 「ああ、水瀬が俺の頭にぶつけたマスカットか」 水瀬は、へへっと笑いながら肩をすくめた。 「あのぶどう、すっごく美味しかった」 百貨店だと一房何千円もする高級ぶどうを、水瀬はあのとき初めて食べたようだった。 「分かった、明日買ってきてやる」 「やった!」 水瀬の笑顔が眩しくて、迅は目を細めた。 一度だけ、病院で水瀬の母親に会った。 水瀬によく似た美しい女性だったが、夜の匂いがしたのと、彼女の華やかさとは対照的な地味で貧相な男を連れていた。もしこの男が仕事の客だとしたら、生活を切り詰めて彼女のもとに通っているのかもしれない。 二人には客とホステスという関係を超えた、どこか親密な雰囲気が漂っていた。男には彼女を惹きつける何か魅力があるのかもしれない。 子どもをかまってやれないのは、かけもちしている仕事のせいだけじゃなさそうだ。しかし、女手一つで病弱な子どもを育てるのはさぞかし大変だろう。 誰かに頼りたくなる母親を責める気にはなれなかった。それになんと言ってもあの美貌、男が放っておかないだろう。 水瀬は愛情に飢えているのかもしれない。それが彼にときどき歳の割には幼い振る舞いをさせている理由だろうか? しかし、どうやらそれは迅に対してだけのようだった。水瀬の前担任やナースたち、そして母親も水瀬は聞き分けのいい手のかからない良い子だという。 それについて、宗方先生はこう言った。 ――心海に甘えているんだよ。 喜んでいいのか、なめられていると不服に思うべきなのか複雑だったが、あの子が自分に甘えていると思うと、なんだか胸がむず痒かった。 もしかしたら、迅は水瀬の宗方先生になれるかもしれない。 正直、学校と部活の後に毎日見舞いに行くのはかなりしんどかったが、そう思うと俄然やる気が出た。 今回、水瀬は風邪をこじらせ肺炎になり、そこから感染症を引き起こし、長期入院を余儀なくされていた。 何の病気なのかと尋ねてみたが、具体的な病名は教えてもらえなかった。 本人曰く、いわゆる虚弱体質というやつで、たいしたことはないという。たいしたことなくて長期入院などするだろうかと思ったが、それ以上聞くのは憚られた。 水瀬は迅が学生時代にバックパック一つでいろんな国を旅して回ったときの話を、いつも聞きたがった。 「いいな、僕は一度も旅行をしたことないんだ。うち、僕のせいでお金ないし、身体もこんなだし」 「元気になったら、いくらだっていろんなところに行けるさ」 こんなありきたりな言葉しか返せないことがもどかしく、他に何かいい言葉がないものかと逡巡する。 「そうだ、修学旅行があるじゃないか」 言った端から、去年、水瀬はドクターストップがかかって修学旅行に行けなかったことを思い出した。 「この調子じゃ、今年も無理だよ」 案の定、後ろ向きな答えが返ってきた。 「大丈夫、俺が水瀬の主治医に頼んでやる。なんだったら、旅行中、俺がずっと背負ってやってもいい」 「え、やだよ、恥ずかしい」 水瀬は小鳥がさえずるように笑った。 ああ、この笑い方だ。迅が彼と初めて桜の木の下で会ったときと同じ。あのとき、迅は水瀬の美しさに見惚れたのだった。そして、それは今も同じだった。 「先生は本気だぞ、だから今年は必ず一緒に行こうな」 虚弱体質でも楽しめることはいっぱいあるはずだ。ゆっくりでも少しずついろんなことに挑戦していけばいい。 それから、将来はどんな職業に就きたいか、退院したら何をしたいかなど、二人は話に花を咲かせた。 「ちなみに先生はなんで教師になろうと思ったの?」 宗方先生の話を聞いた水瀬は、「ふーん」と薄い反応を浮かべながらうなずくと、迅が持ってきたマスカットを一粒口に含んだ。
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