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第16話

次の日の夜、迅のスマホがピロリンと鳴った。 ――今日の先生、すごくかっこ良かった。 ――俺ばっか見てないで、ちゃんと授業に集中しろ。 文面とは裏腹に、迅の顔はともすると緩んでしまう。 ――先生、今日の授業で分かんないとこがあるから、明日教えて。 「ほんとかよ……」 迅は喉の奥で笑った。 水瀬は学校を休みがちだったが、成績は良かった。病室にはゲーム機や漫画の他に、教科書が積んであったのを迅は知っている。 もともと頭のいい子でもあるのだろうが、彼は彼なりにみんなから後れを取るまいと一生懸命なのだろう。 無理もない。 ――分かった、明日、昼休みに職員室に来い。 ――職員室はヤダ。 少し間をおいて、 ――先生と二人になれるところがいい。 ピクリと指先が跳ねた。 我儘言うんじゃない、そう返そうとしたが、すぐに次のメッセージが届く。 ――昼休み、視聴覚室で待ってるね。今夜はブドウじゃなくて、英語の教科書を数えながら寝る。おやすみなさい、先生。 クマが枕を持ったスタンプが届き、会話が強制終了させられる。 「英語の教科書を数えるだって? いつからそんな英語好きになったんだ」 そうつぶやきながらも、胸の内側が温かいもので満たされていくのを感じた。 しかし、それと同時に、じわじわと水位を上げるそこはかとない不安に、のみ込まれていくようでもあった。 昼休み、視聴覚室に行くと、水瀬はすでに窓際の席に座って迅を待っていた。 「先生、一緒にお昼食べよう」 屈託のない笑顔を向けられ、分からないところがあるというのは、やはり口実だったのだと悟った。 「昼はそんなもんを、それだけしか食わないのか?」 水瀬が持っていたのは、メロンパンが一つだけだった。 「あんまり食欲ないし、お金だって……」 このときばかりは水瀬の母親を責めたい気分になった。 そう言う迅も昼はコンビニ弁当だが、まだ成長期の、それも病気がちな水瀬の食べるものではないと思った。 「ちょっと待ってろ」 迅は自分のコンビニ弁当を職員室に取りに戻ると、水瀬に手渡した。 水瀬は大喜びで、コンビニ弁当をあっという間に平らげた。その食欲を見て迅は少しばかりほっとした。 「明日も先生のコンビニ弁当食べたい」 水瀬は期待に目を輝かせた。 「コンビニ弁当は誰のでも同じだろう」 「前に言ったでしょ、僕、先生がくれるものはなんだって嬉しいんだ」 「水瀬、おまえ……」 迅はその先の言葉をのみ込んだ。 「なに?」 「いや、なんでもない」 言葉にしなかった水瀬への問いは、迅の中でいつまでもしこりのように残った。 次の日、水瀬にコンビニ弁当を手渡すと迅は言った。 「これからも弁当は先生が買ってやるから、ここじゃなくて教室で友だちと一緒に食べろ」 「やだ」 にべもない返事が戻ってくる。 「その方が友だちもできるだろ」 「年下なんてガキだもん」 一歳くらい変わらないだろと思ったが、学生時代の一年は大きい。 「友だちなんていらない、先生がいてくれたらそれでいい」 迅は乾いた唇を舐めた。言葉にしてしまうと、もう逃げられなくなるようで怖かった。かといって、このままずるずる流されていくのはもっと怖かった。 「水瀬……、前から聞こうと思っていたことがあるんだが、水瀬のその、俺への気持ちはどういった種類のものなんだ? 尊敬とか、憧れとか、あるいは……」 恋愛感情。 わずかな間がやたらと長く感じた。 水瀬の淡い瞳が迅に向けられる。髪も太陽の光を受けて同じ色に透けていた。病室で会っているときはいつも夜だったが、こうして昼間に会うと、水瀬の色素の薄さは際立って見えた。 桜の木の下で初めて会ったときもこんなだった。あのとき、迅は水瀬を薄い桜の花びらみたいな子だと思った。 彼は本当に綺麗だ。 こんなときに、迅はそんなことをぼんやりと思った。 「昨日の夜、僕、先生を数えて寝たよ」 それは、二人だけに分かる暗号だった。 「明日はサラダうどんが食べたい」 水瀬は早口でそう言うと、視聴覚室を出て行った。 扉が閉まると同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。 ――ここで終わらせろ。これ以上は危険だ。 そう強く自分に言い聞かせた。 それは、迅自身への警告だった。
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