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第17話
その日、視聴覚室の前を通りかかったのはたまたまだった。
扉が開けっぱなしになっていたので閉めようとすると、部屋の奥に投げ出された二本の足が目に入った。
近づくと、床に水瀬が倒れていた。長いまつ毛が伏せられた顔はひどく青白く、背中がヒヤリとした。
「水瀬! おい大丈夫か? 水瀬」
閉じられた瞼がわずかに震え、ゆっくりと持ち上がる。小さな口がぶつぶつと何かをつぶやいている。
「心海先生が1527人……、心海先生が1528人……心海先生が……」
夢心地に半開きだった目がやがて大きく開かれ、はっきりと迅の姿を映し出した。
「心海先生?」
驚きと喜びの入り混じった顔から、先ほどの青白い影は消えていた。
迅は水瀬がただ寝ていただけだと分かると、どっと全身から力が抜けるのを感じた。
「紛らわしい寝方をするな、そろそろ六限目が始まる時間だぞ。つか、いつからここで寝てたんだ? まさか昼休みからずっとじゃないだろうな」
「だって夜眠れないんだ、先生を数えてるのに……。ううん、先生を数えれば数えるほど、先生がいっぱいになればなるほど、胸に何かが詰まったように息苦しくなって、もっと眠れなくなるんだ」
「だったら他のものを数えろ」
「やだ。ねえ先生、なんでもうここに来てくれないの? なんでメッセージ無視するの?」
「水瀬だけ特別扱いするわけにはいかないだろ。ここは病院じゃなくて学校なんだ、我儘を言わないでくれ」
甘やかすだけ甘やかし、無責任に放り出している感が拭えなかった。
俯く水瀬から迅は目を逸らした。
「そうだよね……、先生にとって僕はたくさんいる生徒の中の一人だもんね。分かったよ、もう我儘言わない。けど最後に一つだけお願いを聞いて、先生」
「こういうときの願い事は、ろくなもんじゃないからなぁ」
「ハグして、それだけ、ね、いいでしょ」
「ハグって……H、U、Gのハグか?」
水瀬はコクリとうなずき、迅の返事をじっと待っている。
水瀬が女生徒だったら、完全にアウトだ。すでに密室で二人きりなのもダメなのに……、でも水瀬は男だ。
だが……。
「俺はもう行くぞ、水瀬も教室に戻れ」
水瀬は窓に駆け寄ると、黒いカーテンを閉めて回った。
「おい、何をしてるんだ」
すべての窓が覆われ、視界が閉ざされたと思ったら、はらりとそれは迅の腕の中に倒れ込んできた。
それは本当に、風が吹いたら飛ばされるのではないかと思うほど軽い身体だった。こんなに頼りないものを腕に抱いたのは初めてだった。
水瀬は迅の背中に腕を回し抱きついてきたが、その力があまりにもか弱くて迅は戸惑った。抱きしめたら壊してしまいそうだった。
「心海先生……好きです」
淡雪のような告白だった。
ドクンと、心臓から押し出された血液が迅の指先を熱くした。火の灯った手で人の形をした薄氷に触れているようで緊張した。ふわりと甘い香りが鼻先をかすめ、迅の思考をあやふやにする。
気づくと水瀬の華奢な身体をこわごわと、けれどしっかりと、抱きしめていた。水瀬はそれに応えるように迅に回した手に力を入れ、「好きです」と繰り返した。
そのとき、廊下で耳をつんざくような声が響き、続いて笑い声が聞こえてきた。
とっさに身体を離した迅に、水瀬が追いすがってきた。その手を払いのけ、迅はそのまま部屋から走り出た。
外の明るさに、一瞬眩暈がした。廊下の先に、女生徒たちが談笑しながら歩いているのが見えた。穏やかないつもの光景が、視聴覚室の暗さをいっそう暗く感じさせた。
今のは、絶対にあってはならないことだった。
――おまえにそのつもりがなくても、あっちがそうだとそれだけでこっちは爆弾抱えさせられたようなもんなんだよ。
宗方先生に言われた言葉が脳裏に蘇った。
水瀬が男だと思って完全に油断していた。女生徒だったら、もっと最初からしっかり予防線を引いていたのに。
本当にそうか? 前からこうなることが分かっていたんじゃないか?
少しでもこの場から遠ざかりたくて、早足になった。
視聴覚室の影が迅を追ってくるように思えて、無意識に手で宙をはらった。その瞬間、水瀬の身体の感覚が指先に蘇り、下腹部がずくんと疼いた。
視聴覚室の暗さより、もっと黒いものが自分の中に渦巻いていた。
水瀬じゃない、水瀬じゃないのだ。
遠くに正門の桜の木が見えた。
始まりは水瀬じゃない。迅なのだ。あの日から、水瀬に最初に会ったあの瞬間から、その種は迅の奥底で芽吹いていたのだ。
ひどく動揺した。けど、今ならまだ間に合う。小さく芽吹いただけの、どんな花を咲かせるとも分からないそんなもの、摘み取ってしまえ。
自分は日本一立派な教師にならなければいけないのだ。教師二年目、こんなところでつまずいている場合ではない。
何よりも、父に土下座までしてくれた宗方先生の顔に泥を塗る気か、しっかりしろ迅!
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