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            「…………」   「…………」    そのふくよかな、艶のある美しい唇をそっと閉ざして黙り込んでは、僕の右手に触れて何かを確かめる、この美麗な紳士の――この行為の目的とは、いかに。    彼、今はその大きな左手で、僕の右手の手の甲をそっとすくうように添えて軽く上げ、右手ではまた四本の指先で、今度は僕の手首の付け根から指先へと向かうように、つうぅ…と四本の指先を滑らせている。    この男性の手は、もしかすると僕の手よりもやや大きいかもしれない。――男性的な太さの指は長く、その広い手のひらよりも、指のほうが長いように見える。  BGMもない店内はやはりシーンと森閑として、僕たちの間に会話もなく、ほかのお客様も居ないために、妙な静けさが僕たちの間に漂っている。――というのも、このカフェの店内に開店時間までは流れていたジャスミュージックは、この男性の要望によって止められたのである。    また僕の背後、通路を挟んだ先にあるカウンターの中に居るはずのケグリ氏も、言葉を発しないどころか物音一つ立てない。――ただ彼は、僕たちのことを固唾を呑んで見守っているような、そんな気配はする。   「…………」   「…………」    まあ、少なくとも――僕はさして嫌な気分になっているということもない。…疑問には疑問だが、…普段この店に訪れるお客様にされることよりは、よっぽど優しい。言ってしまえば、ただ手を丁寧に触られているだけなのだ。    何か熱心に僕の手を触っているこの男性の手は、指先まであたたかい。――僕の手が、先ほど念入りに手を洗ったために冷えているからか、緊張で冷えたからか、彼の手の指のぬくもりが、その指先が触れてくる箇所にじんわりと染み渡るよう、あたたかく伝わってくる。    自分の手が緊張に汗ばんで震えているのは我ながら気に掛かるが、一方の彼はそのことを気に留めた様子もなく、今度は僕の手を、その大きな象牙色の両手のひらで包み込んできた。   「…………」   「……、…」    とても…あたたかい。――ふんわりと僕の右手を包み込んでくるこの人の両手は、とても優しい。  とはいっても正直…初めて会ったこの紳士と向かい合って座り、何も言葉を交わさないでただ片手を包み込まれている、触れられているというこの状況は、何か気まずいには気まずい。――ましてやだんだん、僕はこの行為の意図を知らないばかりに、疑問ばかりが浮かんでむしろ、“どういう目的なんですか”と聞きたくて仕方がなくなってきた。   「…………」   「…………」    しかし、ここで僕が、彼に話しかけるのは迷惑だと思われるに違いない。――彼はなぜか、この行為にとても熱心なようなのだ。    ところで…――セクハラめいたこと、とは。    ただ僕の手を、擽ったいほど優しく触ってくるだけじゃないか。…こうして優しく、まるで懺悔者の罪を許す神父様のように、僕の右手を包み込んでくるだけじゃないか。    もし人の手に触れるというだけでもセクハラとされるなら、人と握手を交わすことさえセクハラとなってしまうだろう。――いや、もしか女性相手ならばあるいはたしかに、こうして自分の手を、男性に念入りに触れられるというのは、セクハラだ、と言う人がいるかもわからない。  ただとはいっても、僕は彼とは同性――男性同士であるため、この程度のことでは大してセクハラだ、などとは思わない。   「…………」   「…………」    むしろ、仮にもこの行為がセクハラだとしても、これはセクハラだ、と声を大にして意思表示をするような気力は、今の僕にはないのだ――。      

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