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ただ、そうして名前をカタカナ表記する理由には、読みが言語的に複雑であるほかに――もう一つある。
それは、なぜ今さっきソンジュさんが“(僕の名前の字 を)言えるわけないですよね”と僕に言ったか、というところに起因した理由だ。
というのは――僕たちの国ヤマトでは、名前というものに何か、“神秘的な力”が宿っていると信じられていた時代があった。…いや名前というよりは、言葉や文字そのものに強い霊力が宿っている、と。――ちなみにそれは、言霊 というそうだ。
そのため僕らの国ではいまだに、自分の“正式な名前(漢字表記を含めた名前)”を、むやみやたらに人に教えてはならない、という風習があるのだ。
だから僕たちヤマト人の、その自分の“正式な名前”を知っている存在は自分と、両親と、そして、これから家族となる人のみである。――すなわち学校や会社の人たちどころか、実は親戚でさえ、お互いの“正式な名前”を知らないのだ。…もちろん生まれたら“正式な名前”を役所に届け出るし、結婚するときにも必要にはなるため、役所の人や、国はそれを把握してはいるが、それでもかなり厳密な個人情報扱いだ。
この文化を単にいえば、そうして漢字を明らかにした、“正式な名前”を他人に教えてもよいとされる場面は――“結婚をするとき”のみ、とされている。
もちろん各々、自分の名前の漢字は把握している。
ただ、このヤマトの古くからの風習では、恋人から婚約関係となり、婚姻届を役所に提出する段階――そこまでいってやっと僕たちヤマト人は、パートナーの“正式な名前”を知る。
つまり、たとえ恋愛関係であったとしても、結婚をするときまではお互いの“正式な名前”を知らないのだ――いや、そうはいっても現代のカップルは割とみんな、早い段階でお互いの“正式な名前”を告げ合っているようだが――。
そしてその古い風習にならうなら、じゃあいざ結婚をしよう、とお互いの気持ちが固まった段階であろうとも、(義両親となる夫婦から)自分が婚約者として認められなければ、その恋人の“正式な名前”を教えてもらえることはない。――簡単に言えば、結婚をすることができない。
なぜなら、その人の“正式な名前”は、その人の両親が“両者の結婚を認めた”という証として、その人の両親からパートナーに授けられるもの、とされているからだ。
そうして、自分たちの子供の“正式な名前”を、子供のパートナーに授けることによって、その子供をその人に“授ける”という意味があるらしい。
とはいっても、これらは今やヤマト人であろうとも、全部古くさいとされる風習だ。
現代の人々がそれにならった方式で結婚しているか、というと、おそらくはほとんどの人がもっと気軽な方法で結婚しているに違いない。――そもそもとして、個人が自分の“正式な名前”を知っているのだから、もちろん両家両親の意向などは関係なく、婚姻届を出すことはできる。
つまり、両親に認められようがられまいが、結婚することはできるのだ(まあもちろん、この風習を重んじている家庭でそんな勝手なことをしたら勘当はまぬがれないそうだが、とはいってもそんな家のほうが今や少数派だ)。
ただ、その風習の名残りは今でも残っている。
だから今、ソンジュさんは僕に対して“(僕の名前の漢字を、初対面の自分なんかに)言えるわけないですよね”、とすぐさま引いたのだ。――そうして人の、“正式な名前”の追求を無理にすることは失礼にあたる、という文化が、ヤマトにはいまだあるということである。
「……はは…、…」
思わず顔を伏せて、僕は苦笑している。
それにしても、さらりと人の名前を“素敵ですね”なんて褒められるソンジュさんは、大分手 慣 れ た 印象を受ける。
何に手慣れているって――もちろん、そういうロマンチックな雰囲気作りというか、…恋人作りというか。…モテそう、というか。
どう考えても彼、恋人や配偶者がいる人か、そうでなくともかなりモテる人に違いない。――それでなくとも美形でお金持ちで権威持ち、スマートで褒め言葉もスッと出てくるとは恐ろしいくらいだ。
もしかするならば彼、アルファなのかもしれない。――あるいは、“エイレン様”に守られている人か。
「…ユンファさんは、きっと“エイレン様”に守られている方なんでしょうね。」
「はえ? あっ…な、なぜそう思うんですか?」
今しがた僕も同じことを考えていたので、間抜けな反問となってしまった。――ハッと顔を上げれば、ソンジュさんは口元に微笑みを浮かべており、僕は目を瞠って驚いている。
いや、同じこととはいえもちろん、ソンジュさんこそその“エイレン様”に守られている人なんだろう、という彼に対するものだが。
「…それはむしろ、ソンジュさんのほうかと…、…」
それこそ“エイレン様”に守られているのは、よっぽどソンジュさんのほうだろう。
ちなみに“エイレン様”という存在は、いうなれば庶民的な“恋愛成就の神様”といったところだ。
僕がそう言えどもソンジュさんは、「いえ、私なんかはそのご加護がないほうの人ですよ」と謙遜し、やはり柔らかい笑みをその艷やかな唇に浮かべたまま、その声色もまた優しく。
「…ユンファさんのお名前は、大変綺麗な響きではないですか。…それに…何よりユンファさんの声も、またその手も、本当にお美しいですから。」
「……、…」
わかった。ロマンチスト、なんだな、この人(花の名前にも詳しいそうだし)。
呆然としている僕だが、ソンジュさんはかなりスラスラとなめらかに、少しも恥じらいを見せずに。
「…私が思うに、きっとユンファさんは、その月下美人の名にも恥じることがない、容姿にしてもとてもお綺麗な方なんでしょう。――まるで、月明かりの下でひっそりと艶やかに咲く、月下美人のようにね……」
「……あぁ、はあ…」
どうかしてる、とはさすがに言い過ぎか、失礼だろうが、いやさすがにそこまで褒めなくても――こんなの、まるで口説き文句じゃないか?
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