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                「――…ユンファさん。…」   「…はい…」    何かソンジュさんは、神妙な顔をしている。  彼、どこか神父様のような、神聖な感じのする落ち着き方だ。――その目元は黒茶のサングラスに隠れているので、その笑みを浮かべていない口元ばかりでの判断基準だが。   「…今貴方の声は、不必要なまでに警戒したような声でした。――なぜそんなに警戒なさっているのです。…」   「……、…」    僕の声色一つで、彼にはそこまでわかってしまうのか。  よほど僕の顔に浮かんだ表情を見ている人より、的確なのではないだろうか。…ソンジュさんはやはり、鋭い洞察力を持っているらしい。   「正直、今のはありふれているといえばそのような、単純な褒め言葉だったかと」   「…それは、…あの、それはいいんです、どうでも…」    どうでもいいのだ。  そう…どうでもいい。――僕が人の甘い言葉…いや、簡単な褒め言葉にすら素直に喜べなくなった理由なんか、僕にとってはもうどうでもいいのだ。    感情はいらない。  全部、どうでもいい。――悲しくもない、痛くもない、人形。…僕はただの人形だ。都合のいい道具だ。   「…………」    うつむいた先――自分の、白い皮膚に青く太い血管が浮かぶ両手が、自分の黒いチノパンの上で力なくぼうっと浮いているように見える。…まるで暗がりにぬぼーっと現れた、幽霊のように不気味な手だ。   「…申し訳ありませんが、私にとってはどうでもよくありません。――私は()()が聞きたくて、ユンファさんに取材を申し込んだのですから。…」   「…はあ…、すみませんが…なぜ、僕なんかの…そういう、過去というか、置かれている状況というか…なぜソンジュさんは、僕の()()()()()()が知りたいんですか」    それこそ僕のご主人様…――ノダガワ・ケグリ氏が言うように、僕なんか本当に、そこらへんにゴロゴロいるような、ただのオメガの性奴隷だ。  そんな僕に対して、どうしてそこまで知りたいと思えるのだろう。――どうもソンジュさんの好奇心は、普通の人のそれより並大抵ではないような気がする。    そう思っていた矢先、ソンジュさんは真剣な声で。   「…それは…――私が、小説家だからです。」   「…はあ…、…」    小説家…?  僕は、そっと顔を上げた。  ソンジュさんは、その血色の良い唇を真摯そうに閉じているが、ただ固くはなく、そのふくよかな上下の唇のあいだには、ほんの紙一枚ほどの隙間が見える。   「……?」    ところで、目が見えないというのにどうやって小説なんか書くのだろうか。――いや、現代の技術ならあるいは、口頭で言った文章を音声認識して文字にしてくれる何かをアレコレして、いや、いや。  だから、――だからって、なんでなんだよ。   「…小説…? つまり、僕なんかの経験談が、貴方の作品に活かされるかもしれない、ということですか。――でも正直、僕が貴方のご期待に添えられるとは、とても…」   「…その通りです。――いえ、構わないのですよ。仮にもユンファさんが、()()()()()()()()()()()()()であろうともね。」   「……はあ…、…」    もちろん制作側――小説家――のことはよく知らないが、それこそその職業の人とは初めて会ったためにか、あわや僕個人の穿ったイメージばかりの話ではあるが…いや余談だが、僕はこれでも小説をよく読むほうなのだ。  まあ、近頃に()()()()()()()は、それもほとんど読んでいないが――僕は、もともとは年に何冊も小説を読んでいた。  そして、そうしてそれなりの関心を小説作家の方々に寄せていたために思っていたのは、大概の文豪が変人ばかりである、ということだ。――それが何というか…今になって、まるでそのイメージの証左ともいえるような人が目の前に現れたというか、僕の目の前にいる独特な感覚を持っている小説作家先生がそれを証明してきたというか…いや、みんながみんなと言っては失礼か。    少なくともこの人は、()()()()()()()らしい――。   「…正直、そんなもの、なんですか…?」    僕のこの疑問に、ソンジュさんはにこ、とその美しい口元に微笑みを浮かべて、こう言うのだ。   「…ええ、そんなものです。――ちょうど私は今、オメガの性奴隷に関する作品を書こうと構想を練っているのですよ。…ですから、その作品題材にぴったりなユンファさんに、この取材をお願いした次第です。」    ソンジュさんの明快な肯定に、僕はまた「はあ…」とうつむいた。   「…そうですか…、でも、本当に僕なんかで、いいんですか…」   「()()()なんて、そうご謙遜なさらないでください」   「…あ、ごめんなさい…、…」    たしかに僕()()()とは、我ながら人に面倒臭いと思われる卑屈な物言いだった。    ただ、近頃の僕は――自分のことをそうしてあえて下げることで、自分を守る癖がついているのだ。  たとえば自分のことを本当に素晴らしい人だと認識している誇り高い人が、どうして性奴隷なんかになって耐えられるだろうか。――少なくとも奴隷として過ごすためには、奴隷として自分を卑下し、傷付け、自分は本当に最低な存在なんだと位置付けて認識し、かつ、自分以外の人は自分よりも上なんだ、彼らは見上げるほど素晴らしい存在なんだと認識するほうが、よっぽど()()()()()()()傷付かないものなのである。――と…このごろ学んだ僕は、確かに面倒臭いほど卑屈になっている自覚はあるのだ。      

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