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         そのあとケグリ氏は、ニヤニヤしながらこう続けた。   「ところで、後出しのようで申し訳ないが、ユンファ君には住み込みで働いてもらうつもりなんだ。いや、もちろん千日間限定だが、もう住む場所は用意してある。学生寮みたいなもんさ。この家から私のカフェに通うのは骨が折れるだろう。――なんなら今日、これから一緒に帰るかい?」   「はい、わかりました。…すぐに荷物をまとめてきます。」    そう言って立ち上がった僕に、気が早い、もっとよく考えてから、とか――僕がたしかに聞き取れないような、お互いの発言がごちゃごちゃと被ってもそれを気に留められないほど焦っていた僕の両親は、正直まだこの時点でも、僕がケグリ氏のもとで働くことを認められないようだった。  しかし僕は「早いほうがいいだろ」と、不安を隠すように低い声で再度両親を制した。――僕は、()()()という“期限”があるのだから、一日でも早く働き始めたほうがいいと考えていたのだ。           ×××          そうして慌ててまとめた荷物を、茶色いボストンバッグに詰めた僕と一緒に家を出たケグリ氏は、ケグリ氏が運転する黒いワゴン車に乗って――カフェ『KAWA's』へとやって来た。  いや、()()()()()というより、当面の間此処が僕の家となるのだから、正確に言えば()()()()()と言うべきなのだろう。    そして僕は、まずこのカフェの店内の、ソファの角席に座るようケグリ氏に促された(今僕とソンジュさんが座っている席だ)。――なので僕は、そのグレーの革張りのソファに腰かけ、肩から下げていた茶色く太ったボストンバッグも自分の隣に置いて、かしこまって背筋を伸ばし、緊張に震える脚を抑えるように、また自分の両膝頭を掴んで座った。    一方のケグリ氏は、なにか対面にあるカウンターテーブルの中に入って僕に黒い背広の背中を向け、黒光りしている冷蔵庫の扉を開けて閉め――どうやら、飲み物でも用意しているらしかった。…ザク、ザクと冷蔵庫とは別にある、ケグリ氏の腰くらいの高さにあるクーラー――氷製機の中に専用のスコップを刺し、氷を取り出している音がする。   「…………」    正直僕は、自分はこれからどうなってしまうのだろうと、この沈黙の時間になってやっと不安に思った。…おそらく僕はこれから、ケグリ氏…いや、ケグリおじさんと、セックスをすることになるんだろう。――いや、いや、…余計不安になるのだから、そんなことを考えるべきではないとかぶりを振る僕は、むしろこの時間に弱気が出てきてしまった、と自分の揺らいだ覚悟を取り戻すよう、深く深呼吸をした。  ――なるようにしかならない。    そんなことをしている間にも、ケグリ氏は両手に細長いコップを二つ持って、カウンターテーブルの端から出て来た。――そして、その様子を見ていた僕と目が合うなり、ニヤリとした笑顔を返してきたので、僕は目を逸らすようにコーヒー色のテーブルの上に目線を置いた。   「そんなに緊張することはないじゃないか。ユンファ君はしばらく、私()()の家族みたいなものなのだからね」   「……、……」    ケグリ氏の“私()()”という言い方は、明らかにケグリ氏の他に誰かが居る、という意味を孕んでいた。――でも僕は、不安と緊張のあまりそれを追求する勇気がなく、黙り込んでいた。    ややあって僕の座る座席へとやって来たケグリ氏は、僕の前に細長い透明なコップ――四角い氷が浮かび、コップの八分目まで入っている黒いアイスコーヒー――を置いた。    そして、対面にもう一つの、同じようなアイスコーヒーの入ったコップを置きながら、ケグリ氏は僕の対面にある木製の椅子にどっかりと座った。――ギ、ギイッと悲鳴をあげた椅子にハッとして顔を上げた先、ケグリ氏はずっと僕を見ていたのだろう。やはり簡単に、その不気味な目と視線がかち合った。    しかし「さて…」と言いながら横へ――テーブルの端ギリギリに置かれた、黒いメニューブックのほうへ――顔と共に視線を向けたケグリ氏。  そのままそちらへと手を伸ばし、おもむろに、メニューブックを手に取ったケグリ氏の横顔はやや受け口で、また鼻の付け根が低くへこみ、そこからなだらかに鼻先へ高くなるも、その横に広かった鼻翼も相俟って、バチンと平手で鼻先を潰されたように見えた。  おぞましさすら覚える醜さだ…――そう本音で思ってしまった僕だが、あくまでも僕ら家族の恩人であるケグリ氏に対し、なんて無礼なことを思ってしまったのだろうと、僕はすぐに自分の不躾さを恥じた。    ケグリ氏は、自分の横顔をまじまじと見ていた僕に横目の一瞥をやってきたため、僕は恥ずかしくなって顔を伏せた。   「そのアイスコーヒー、飲んで構わないからね」   「…あ、はい、…ありがとうございます…」    やけにねっとりと、優しげな声で僕にアイスコーヒーを勧めたケグリ氏に、僕はどうもゾワリと不穏な気分になった。――しかし、これはただのケグリ氏の厚意に違いなく、すぐにお礼を言った。…ただ申し訳ないことに、僕はこの当時、ブラックのアイスコーヒーが飲めなかった。    母さんがいつも淹れてくれるコーヒーが、砂糖とミルクのたっぷり入った、甘すぎるくらいのカフェオレだったせいだ。  僕が小さなころ、出勤前に毎朝コーヒーを飲む父に憧れてコーヒーをねだってからというもの、母は変わらず――大学院生ともなった僕にも――その甘すぎるカフェオレを淹れてくれた。…ただし大人になった僕とって、正直そのカフェオレは甘すぎたのだ。  でも、それを淹れてくれた母に「甘すぎるよ」と文句を言うと、母はニヤッといたずらに笑って「あなたどうせブラックじゃ飲めないんだから。それに、糖分を取ったほうが勉強ははかどるもんじゃない? ちょうどいいでしょ」と、無理やりそのカフェオレを置いて、母は軽快な足取りでどこかへ行ってしまうのだ。――三十分も経たずに戻って来て、「今日晩ご飯なにがいい?」と聞きに来るくせに。   「…………」    意外なところで、僕はまた決意を固くした。  この真っ黒なアイスコーヒーによって、だ。――自分がどれだけ彼らに甘やかされて育ったかが、それでよくわかったのだ。  そのコップの端や氷の周りばかりが少し茶色く、あとは一面真っ黒なアイスコーヒーを見て、胸が熱くなった。     「…よし…、…」      これから僕がすることは、立派な親孝行だ。  僕の大切な両親のために、頑張ろうと小さく奮起した。          

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