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アイスコーヒーをぼんやりと眺めていた僕の対面に座っているケグリ氏が、再度「さて」と言いつつ、スッと黒茶のテーブルの上で滑らせ、僕の方へと寄越した――白に小さな文字が横向きに印字された、二 枚 の A 4 サ イ ズ の 紙 。
ケグリ氏はそれを僕に見せ付けるようにしてから、話を始めた。
「ユンファ君にはこれから、このカフェ“KAWA's”で千日間ほど働いてもらおう。君が此処で一日働くごとに、私に一 万 円 返 せ る ということだ。――いやいや、本当は実に一千万以上の借金だったんだがね、古くからの友人のよしみで大 目 に 見 て 、キリもいいし一 千 万 ということにしてあげてるんだよ」
「…………」
「それに、君が頑張って働いている間、ご両親は生活費の心配もしなくて済むんだからね。」――家族の借金を肩代わりしてくださった恩人に、このようなことを言われたならばきっと、僕はここで「ありがとうございます、頑張ります」と答えるべきであった。
しかし、僕の目の前に置かれた二 枚 の 契 約 書 に目を奪われていた僕は、あまりのことになにも言えなかったのだ。
「…、……、…」
目がグラグラと揺れて、さあっと血の気が引いた感覚が顔中にあった。――下の歯が怯えたように震え、僕の厚い下唇もまたカタカタと震えた。…しかし、そんな僕の様子を見ているのだろうケグリ氏は、僕のことを気に掛ける様子もなく、こう続けた。
「ユンファ君。…君は大学院にまで通っている、将来有望で、オ メ ガ に し て は 稀有な、若くて優秀な存在だからねぇ。――ましてや私は、ユンファ君のことを小さなころから知っている。君のお父さんとも友人である私は、君のことを息 子 のように可愛く思っているんだ。…わかるね?」
「……、…、…」
わ か ら な い …――それが僕の、このときの率直な感想だった。
ケグリ氏がなにを言っているのか、僕にはまるでわからなかった。――目の前にある“二枚の契約書”の内容と、ケグリ氏が言っている言葉はどうも、乖離しているようだったのだ。
「…そこで、ユンファ君には選択肢を二つあげようと思うんだ。賢い君なら、まあどちらのほうが賢 い 選 択 か、すぐにわかると思うがね。…」
「…………」
“二枚の契約書”の間に、縦にすうっと滑って現れた黒い軸のボールペン。――ケグリ氏が僕にボールペンを差し出したのだ。…そして彼のその行動は、この“契約書”のど ち ら か に、僕にサインさせようという意図が明白だった。
むしろ彼のそれは、“必ずどちらかにはサインをしなければならないんだよ”と、僕を脅すようでもあった。
目の前にあれば、僕はその“二枚の契約書”の内容をもうほとんど読んでいた。まさかとは思うが、と思っていた。…しかし、僕にトドメを刺すようにケグリ氏は…――ねっとりと僕の全身に絡み付くなめくじのような声で、そ れ の概要を僕に告げた。
「さあユンファ君…――私と結 婚 す る か、千日間私 の 性 奴 隷 となるか。…今ここで選びなさい。」
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