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怯え、震えてうつむいている僕の前で――ケグリ氏は更に、甘ったるい猫なで声でこう続けた。
「どうしたんだいユンファ君、ほら、どちらがいいんだね。――私と結婚するかい? 結婚して…私たち愛し合い、たっぷりと睦み合い…私と幸 福 な 家 庭 を築こうか。…もちろん私は君のことを大切にするよ。…あぁもちろん、君のお父さんやお母さんを驚かせちゃいけないからね。この千 日 間 は、夫 婦 としての練 習 期 間 としよう。」
「…は、…、…はぁ…?」
信じられない、――僕は今、なにを言われているのだろう。…僕は今、あの“ケグリおじさん”に、なかば脅される形でのプロポーズをされている、のか?
ノダガワ・ケグリ氏は、その人が言うとおり小さなころから僕を知っている人だ。…僕の父と同年代、いや、たしか父よりいくつか年上であったはずだし、となれば僕とケグリ氏の年齢差は三十歳ほども離れている。――僕が三歳のころに初めて会ったような人に、ケグリおじさんに、僕は、…なにを、言われているんだ? 結婚? ケグリおじさんと、僕が、…結婚…?
しかもケグリ氏はこの提 案 の前、僕のことを“可愛い息子”というように言っていたではないか。…にわかには信じられなかった。――可愛い息 子 のように思っている僕と、二十六歳の僕と、還暦も間近な中年のケグリおじさんが、――結婚…? ありえないだろ、そんなの、…現実とは思えない。
「…どうだねユンファ君…、私の赤ちゃんを、生んでくれるかね…?」
「へ…っ? い、いや、…は…っ?」
ゾワゾワゾワ…と、全身に回る嫌悪感が僕の肌を粟立たせた。――この瞬間は…目の前に居るこのニヤニヤしている男が、僕の知っている“ケグリおじさん”ではなく、気持ち悪い“ヒキガエル”にしか見えなくなった瞬間だった。
ケグリ氏は僕が“自分との結婚”に明らかな嫌悪感を示すと、す、と冷ややかな表情を浮かべた。――僕はその威圧感に思わずうつむいた、すると僕の額から流れ落ちた脂汗が、黒茶のテーブルへポタリと落ちた。
「……お、おじさん、…なんで、こんな…酷いこと…」
「なんだ…まさか性奴隷になりたいのか? そうか…性処理道具のようにもてあそばれ、その身の自由を失いたいのかい。――綺麗な顔して意外といやらしいマゾなんだなぁ、ユンファ君は…」
「――…っ、…」
しかも…“結婚”のほうを、あたかも賢 い 選 択 のように示されるとは。
僕は、ゾクリと悪寒に背筋を震わせた。それに、なんて酷い侮辱だ――マゾ…“マゾヒスト”だなどと、ましてや“いやらしい”だなんて、僕は人生のうちでたったの一度も、自分をそんな下 劣 な 性 癖 を持っているふうに思った経験はなかった。
むしろ僕はひそかに、これから経験するであろう自分の初 体 験 へ、純情な夢を見ているくらいの人であった。――もちろん此処に来るまでに、その夢 をぶち壊してから来た…そのつもりではあったが、あまりのことに、僕は本当、今にも吐きそうだった。
「いや、いいのかい。私は一向に構わないが、しかし、そ れ にも書いてあるがね…――もしどうしてもユンファ君が、私の性奴隷になりたいというのなら…カフェのみならず、夜 も働いてもらうことになってしまうんだよ…?」
ケグリ氏は白々しく、哀れっぽい言い方でそのように言った。――婚姻届の隣に置かれた“性奴隷契約書”のほうには、たしかにそ の 内 容 も記されていた。
『 6.性奴隷ユンファは本契約期間中、ご主人様の便利な道具であるため、カフェ『KAWA's』のみならず、夜間営業時の当店(ハプニングバー“AWAit”)の勤務にも誠心誠意励みます。勤務中は性的な要望を含め、性奴隷ユンファはご主人様のいかなる命令も喜んで遂行いたします。
また、“AWAit”にて第三者との性交契約が発生した場合、性奴隷ユンファは嫌がらずそれに応じます。お客様のご要望には、ご主人様がNGを出した件以外は全て喜んでお受けするものとし、性奴隷ユンファはいかなる拒否権をも有しません。 』
そう――カフェ『KAWA's』は週末の金土日にのみ、会員制ハプニングバー『AWAit』へと変貌する。…もし僕が性奴隷を選ぶならば、そのい か が わ し い 店 でも働けというのだ。
「それは嫌だろう、なあ…? 大学院にまで通っているエリートの君が。見世物になって、人前でオナニーしているみじめな姿を晒したり、いやらしくお客様を誘ったり…くねくね踊りながらストリップしたり、もちろんユンファ君のおちんちんやおまんこも、お尻の穴まで、自分で開いてみんなに奥の奥まで見せなきゃならないんだよ。――そして私のみならず、君は多くのお客様に犯され…いやいや、君は見ず知らずの人たちにかしずいて、初めて会ったような人たちのおちんちんへ、丁寧にご 奉 仕 しなきゃならないんだ…」
「……は、…っは…、…〜っ」
嫌だ、そんなの…――でも、ケグリおじさんと結婚なんて、それも本当に嫌だ、こんな変態と、…っこんな気持ち悪い人となんか結婚したくない、
「しかも、もし性奴隷として此処で働くってんなら、昼夜働くのだからね…大学院だって、退学しなくちゃならないんだよ」――そうねっとりと僕へ告げてきたケグリ氏の言葉に、僕は全身の震えが止まらなかった。
「は、…っは…、…は…」
僕は…――正直、頭の中が真っ白だった。
覚悟をしてきたつもりだった。――オメガの体を使って金銭を得ようとするのなら、普遍的に考えてもまずそうした“性的奉仕”を強いられることは、わかって此処に来た…そのつもりだった。
でも、それでも、…とても理解が追い付かない。…昨日まで甘いカフェオレを飲んでいたような僕には、とてもじゃないが…――。
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