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             泣いてしまった僕の気持ちが落ち着くまで、ソンジュさんは僕の頭を撫で続けてくださり――そして、優しく抱き締め続けてくださった。  それどころか、自分の懐からやわらかいハンカチ――これも凄く良い匂いがする――を取り出して、そっと僕の涙まで拭いてくださったのだ。    ――なんて優しい人なんだろう。     「………、…」    でも…と僕は、彼の腕の中でうつむいた。  手渡されたその茶色いおしゃれなハンカチ――よく見たら、僕でも見たことのある高級なブランドのマークが刺繍されている――を太ももの上に置いて、それをやんわりと持ったまま、僕は水っぽくなった鼻をすすった。    僕なんかに――性奴隷の僕なんかに、無条件で優しくしてくれる人なんか、この世の中にはいない。  僕はもうそのことを、痛いほどよくわかっている。    こんなに優しくしてくださるソンジュさんが求めているものは――僕の、過去の話だ。  彼のこの優しさは、それが聞きたいためなのか、はたまた僕を、本当に家へと連れ帰って()()()()を目論んでいるのかはわからないが、――少なくとも、ソンジュさんには()()がある。…だからこそ、僕にこう優しくしてくださるのだと、僕はよくわかっている。 「…すみません、ありがとうございます…――そろそろ、話…、続けますね……」   「………、わかりました。お願いします」    ソンジュさんは僕がそう言うと、反応にやや間を開けつつも、また僕の隣の椅子へと腰かけた。――彼の、いささかの感情の揺れを感じた。…いや、メソメソ泣いていた男を慰めていたら、突然その男が話を続けようというのだから、それは当然のことだろうが。   「…そう…今はもう慣れましたけど、自分でこうなったくせに、自業自得のくせに…馬鹿だから、はじめは結構つらかったんです…――そんなとき、モウラと出会いました。モウラはじめ、このカフェのお客様として現れて……」    はじめモウラは、ケグリ氏の息子であることを隠して僕に近づいてきた。――『こんにちは』…はじめはそう、何気なく僕に笑顔を向けて話しかけてきたのだ。    そして、モウラは…――。   「…大丈夫って…、そんな格好させられてるけど、って――性奴隷の僕を、心配しているように声をかけてきて…」    首には赤い革の首輪、胸元は透けて、乳首が見えていた。…ただこのときには()()、ニップルピアスはなかった。――とはいっても、首輪をして、わざとらしくシャツに乳首を透けさせている僕は、誰がどう見ても性奴隷そのものであった。  そんな僕が性奴隷であることを、あたかもモウラは心配したようなことを言って――『顔も真っ青だし…、てか、よく見たら結構綺麗な顔してるね、お兄さん』   「…そうやって僕を心配したあと、モウラは…よく見たら、僕が綺麗な顔しているって…正直、そのときの僕にとってそれは甘い、言葉で……」   「…………」   「…ズテジ氏にはブスだなんだって言われ続けて、よく生きていられるなとか…僕を犯す人たちはみんな、僕の図体がデカいとか、…酷い人は、僕の頭に袋をかぶせて犯す人もいたし、――だから、そのときにモウラに言われた、何気ない容姿への褒め言葉は、…僕にとっては、本当に…嬉しいもので……」    泣きそうになるくらい、嬉しかった。  別に自分のことを綺麗だなどと、思い上がっているわけじゃない。――自惚れているつもりはないが、…それでも、嬉しかったのだ。   「…それで…モウラは店に来るたび、いつも僕のことを綺麗だとか、可愛いとか、…そうやって、扱って……」    そうしてモウラに優しく、甘く扱われているうちに、僕はいつしか…――モウラが店に来てくれることを、心待ちにするようになっていった。  普段はそれと真逆な扱いを、僕は毎日毎日、誰しもにされていた。――ただモウラだけが、僕のことを尊重し、好意的に、優しく接してくれる人であった。  モウラはあたかも、ケグリ氏と関係ない人の素振りで僕に近付き、あたかも僕に惚れたような顔をして――僕をデートにまで誘った。   「…モウラが来てくれると、彼と話していると、そのときだけは心が安らいで……そ、それに、僕、生まれて初めて、デートにも誘われたんです…――馬鹿ですよ、本当…そんなのに、浮かれて……」    ただ、僕ははじめこそ断っていたが、ケグリ氏が「たまにはいいぞ」なんて…今思えば、その時点で何か確実におかしかった。  でも、マスターでありご主人様であるケグリ氏が、僕とモウラのデートの許可を下ろしたとき、僕は――。   「…僕、…ほんと、馬鹿で…、ケグリ氏がデートすることを許したとき、――正直、…嬉しくて……」    そうして浮かれて行った初めてのデートのとき、どうせもう汚れた体だったくせに、毎日毎日、さんざん犯されてるくせに、――モウラにホテルへ誘われた僕は、『まだ、できないよ。貴方とは、まだ恋人じゃないから…』と。  馬鹿みたいだ。――そんな馬鹿な乙女めいたことを、モウラに、本気で言ってしまったのだ。   「…馬鹿で、本当に、…っ本当に、僕は、…っどうしようもない大馬鹿者で……」    モウラはそんな僕に『わかった。そりゃそうだよね』と引いた。――そうして、その日は本当に、何もなかった。   「…大事にしてもらえているって、…っ勘違いしてしまって、……」    何もなかったからこそ、僕はモウラに自分を大切にしてもらえたように感じて、嬉しかったのだ。――僕のことを性奴隷だとわかっていても、セックスを強要してこなかったモウラは、…モウラだけは僕のことを、性奴隷だとは思っていないんだ、と。  ツキシタ・ヤガキ・ユンファという一人の人として、尊重してくれているんだと――僕は勘違いしてしまったのだ。   「それで、…僕、三度目のデートのとき、僕は、モウラに交際を申し込まれたんです、…それに頷いてしまったんです、ほんと、…本当に、僕は救いようのない馬鹿だから、…」    恋人ができたんだ…こんな僕にも、優しくて素敵な恋人ができたんだ…――そう思って浮ついたまま、僕は、   「…馬鹿じゃない。」   「……、…」    太ももにある、僕の手首をそっと掴み――ソンジュさんは、少し怒っているような低い声で、そう言った。   「…貴方は、馬鹿じゃない。――なぜそう、…ユンファさんは、何も悪くないじゃないですか。…」   「……それは、…どうでしょうね…」      どうだろう…――僕がもっと世の中のことを知っていれば。…世間知らずの、甘ったれたお坊ちゃんであった僕は、自分の価値を見誤っていた。  僕が、自分の価値を、もっとよくわかっていれば。    自分は世の中で、自分が思っているよりもずっと価値がなくて、世の中の人にとっての僕の価値なんか、このオメガ属の体だけで、――そしてその価値は、しばしば人に利用されてしまうものなのだと、あのときにわかっていれば。      僕が、もっと賢い人間だったら…――きっと僕は、モウラに騙されることはなかった。       

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