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               僕が目を覚ましたとき、ホテルに備え付けられているメモ帳に――綺麗な文字の、こういう置き手紙があった。      『昨日はありがとう。最高の夜だったよ。   また必ずお会いしましょう。愛してる。』    しかし…――カナイさんはあの夜以降、あのあとには一度だって僕を、指名してはくださらなかった。    正直いうと、僕は、けっこうそれにガッカリしていた。  何か彼の気に入らないことをしてしまったんだ。…何か、僕はやっぱり彼の望みどおりのことをしてあげられなかったんだ。…そりゃああんなプレイじゃ、…僕ばかりが気持ち良くなって、軽はずみに本気で好きになりそうとか、好きだなんて身の程知らずな気持ち悪いことを言ってしまったし、我儘もたくさん言ってしまった、しばしば綺麗だ、可愛い、とは言ってくれたが、とはいえきっとそれはお世辞、僕の見た目の問題かもしれない――とにかく、当たり前だ。…リピートしてもらえないのは、当然だ。    この『また必ずお会いましょう』は社交辞令だ。…彼、本当に優しかったから、最後まで――最後に、せめて優しくしてくださったんだ。    それに、僕はあの夜、とんでもない我儘を言ってしまったのだ。  もともとカナイさんは、顔が見られたくないから、と目元しか見えないような仮面を着けていた。――そして、キスがしたいからとそれを外したときにも、店から借りたアイマスクで僕の目を、塞いだのだ。    ただ、どうしてだか、もうよく覚えてはいないのだが…アイマスクに覆われた僕の目は――その暗闇の中に、初めて犯されたときの記憶を映した。  ケグリ氏のニヤニヤといやらしく笑う顔、ケグリ氏の声――『お前の初めての相手が私であることは、これでもう一生変わらないんだよ』…フラッシュバックしてきたその記憶に、僕は怖くなってしまった。    僕は、あのときの記憶そのものも恐ろしいのだが――あのときの自分を思い出すのも、本当につらいのだ。  実はあのときの僕はまだ、ケグリ氏を睨んで『殺してやる!』と声に出して叫ぶことができたような、そんな人であった。――そんな僕が、一年半でこんな僕になっている…、その差が、僕は本当につらくてたまらない。    もう取り戻せない自分が、つらくなるのだ。  だから僕はあえて――あのときから、自分はケグリ氏に従順だったと、思い込むようにしているのだ。    しかし、そうして震えて怖がっていた僕に対してカナイさんは、とても優しく、ほかに何かしてほしいことはない? もっと我儘言って、と――それで僕は、ありえないことを求めてしまった。      アイマスク――外してもいい?      そんなの、駄目に決まっていた。とんでもない我儘だ。  カナイさんは僕に顔を見られたくないから仮面を着け、だからこそ僕の目にアイマスクをかぶせたのだ。    それなのに…カナイさんは、わかった、ちょっと待ってて、と…部屋中の明かりを消し――ホテルの遮光カーテンを閉め切って、…僕のアイマスクを外してくれた。    アイマスクの暗闇の中で見えたのは、ケグリ氏のニヤニヤとした、僕の大嫌いな醜い顔で――アイマスクを取った真っ暗闇の中に見えたものは、…そうじゃなかった。      自ら青白く光る、宝石のような…二つの瞳だった。      アルファ属であるカナイさんは、夜目が利く。…たとえば猫や狼のように、彼らは暗闇の中だと目が光るそうなのだ。    だから――その真っ暗で見えたのは、その優しげに光る青い瞳、それだけだ。…しかし、その光っている青い目があまりにも綺麗で、幻想的で、およそ神様のようで、彼は優しい神様なんじゃないか、と僕は本気で思った。  それにカナイさんはあまりにも優しくて、僕が調子に乗るほどに素敵な人だった。    そして、そんな僕のめちゃくちゃな我儘さえも聞いてくれたその人は――僕を、本当にとても、優しく抱いた。    僕は、モウラに初めてセックスで優しくされた。  しかし、そのモウラのセックスを塗り替えるほど、モウラなんかとは比べものにならないほどに、もっと優しく、僕の体に触れた誰よりもそっと優しく…――こんなに優しくされたことがない、怖い、と思うほどに…カナイさんは、本当に僕のことを優しく抱いてくださった。  まるで宝物を扱うように、丁寧に、髪の先から足のつま先まで、僕の全身にキスをして…たっぷり愛撫して、…のみならず。    ケグリ氏に奪われた、僕の初体験の相手が――あの夜だけは彼に変わったような、そんな夢のような夜だった。  というのも、実は…アルファ属の人に初めて抱かれた僕は、正直――あれだけたくさんの男性器を迎え入れてきたわり、それでもアルファ属の彼のが大きくて、ソコから血が、出てしまったのだ。…はっきり言ってかなり痛かったし、それこそ本当に、初めてのときのような異物感さえあった。    そう…この夜こそが僕の初体験なんだと、錯覚するような夜で――しかもカナイさんのほうも、それこそ()()()()()を抱くように、優しく抱いてくださった。  何度も痛いね、ごめんね、ゆっくり挿れるからね、と僕に声をかけ、キスをして、痛みを紛らわせるように体を触ってくれて――本当に少しずつ、ゆっくり彼は僕のナカに入り込んできた。  それに…入ってすぐに彼は動かなかった。…僕の痛みが引くまで、僕の体がカナイさんの形に馴染むまで、彼はひたすら僕に口付け、頭を撫でて、乳首や僕自身に触れたりと、僕をとにかく甘やかした。      その痛みは、僕にとって――むしろ救いだった。        あの夜は本当に、僕にとっては甘くて痛い、幸せなものだったのだ。           

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