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抱き合っている僕たち――僕はまぶたがとろりと重たく、瞑った目はもう薄く開いたが、どこを見るでもないで目線を伏せている。――するとソンジュさんは、僕の片耳にこう囁いてきた。
「…ユンファさん…? ふふふ…ケグリさんたち…きっと私たちのキスも、今こうして抱き締めあっている姿も、しかと見ています。――いえ…その実私は、あ の 変 態 ど も に見せ付けてやったのですよ。…」
「……、…っ?」
僕はハッと目線を上げた。
アダルトショップ『Cheese』の出入り口には、たしかにケグリ氏が立って顔をしかめていた。――その人、いや、しかもモウラまで不機嫌そうな顔をしてケグリ氏の隣に、…ケグリ氏の後ろには、面白くなさそうなズテジ氏までいる。――これはマズい、そうだったケグリ氏あそこに居たんだった、あとで僕何をされるか…「ユンファさんはもう、俺のものなんだってね…」
「…、…っへ…?」
僕がノダガワ家の人々を見ていたとき、聞こえたソンジュさんのそのぼそりの言葉に、今度はハッとソンジュさんを見る僕だ。
するりと離れた彼はしたりと微笑んでおり「ん? なんです、何か聞こえました?」ととぼけながら、サングラスの上でその凛々しい眉をひょいとした。
それからソンジュさんは、僕の肩にかかる自分のトレンチコートを直しつつ――真剣な目を、そのサングラス越しに僕へ向けてくる。
「…貴方は汚くなんかありませんよ、ユンファさん。」
「……、……」
今度は怒ったように固く鋭いソンジュさんの声が、僕のことを責めるようだった。
「…貴方は汚されただけだ。――しかし、誰かが泥のついた手でいくら美しい玉 を汚そうとも、そんな汚れは…水で洗い流し、また磨きなおせばよいのです。」
「……、…ありがとうございます」
僕を励ましてくれているのだろう。――性奴隷である僕のことを、きっとソンジュさんなりに慰めてくださっているのだ。…僕はシンプルにありがとう、と口角を上げて見せた。――その気持ちが嬉しかった。拒むつもりは少しもなかった。卑屈になり続けたくはなかった。
でも、僕の心には何も響かない。――乾き切ってヒビ割れた僕の心には、もう水を与えても無駄らしい。…ソンジュさんがなんのためにこう、僕のことを褒めそやすのかはわからないが。――もし彼の褒め言葉を嬉しいと感じられた瞬間に、きっと僕は死にたくなるのだろう。
たとえもう、水で洗い流そうが、磨き直そうが――消えない汚れが、僕を蝕んでいる。
いや…そもそも、僕ははじめから美しい玉 なんかじゃなかった。――玉 として生まれたとしても、捨てられた玉 は、宝物としての価値がないから捨てられたのだ。
むしろそれは、よっぽどソンジュさんなのだから。
ソンジュさんは、少し悔しそうに目を細めて僕の目を見つめてくる。
「…ユンファさん…誰よりも、何よりもユンファさんが美しく、価値があるからこそ――この期に及んでもまだあそこで、あの者たちは負け惜しみの目を貴方に向けているんですよ。…あ ん な 害 獣 共 に二束三文の扱いを受けているうち、ユンファさんは、ご自分の価値を見誤ってしまっただけなんです…」
「……そういう、わけでは…」
僕がぼんやりとながら否定すると、今度はソンジュさん、ふっと勝ち気に笑う。――そしてサングラスを外すと、僕の目を、その美しい水色の瞳でじっと覗き込んでくるのだ。
「…ふっ…まあいい。いずれ私が思い出させて差し上げます。ユンファさんの本質は、気高い銀狼 である、とね。――ちなみに、私が金狼 ですから…、隣り合うには、ぴったりな組み合わせだとは思いませんか。まるで、月と太陽のようでしょう」
「………、…」
見透かしてくるような目だ。
そうして見つめながらそんなセリフ、あんまりにもロマンチストなソンジュさんに、僕が何も言えないでぼうっとしていると、――僕のその隙を突いてソンジュさんは、かなり強い力で僕が肩からかけていたボストンバッグを奪い取り、「あっ」と油断していた僕がハッとした時点でもう、いつの間にか僕たちの側に立っていた。
「はいお受け取りしましたぁ。…大丈夫よ、大事にお家まで運びますので、ご安心ください。――いやぁもちろん、坊っちゃんや貴方のこともね。…というか、荷物のほうが二の次かなぁ、はははっ」
「……あ、あぁ…ありがとうございます…、…」
今僕に陽気にウィンクをしたのは、白髪混じりのあごヒゲが生え、また白髪混じりの灰色の髪をオールバックにした精悍な顔付きの中年男性――そのタレ目は鳶色、白のカッターシャツに黒いベスト、黒いスラックス、…あぁ、運転手の方…へと、ソンジュさんは、何も言わずに僕のボストンバッグを手渡した。
「…………」
そしてソンジュさんは平然と、またサングラスをかけ直している――というか、気のせいだろうか。
なんとなくこの運転手の方の、“坊っちゃん”の言い方がそのままというよりは、“ボクちゃん(ボkっちゃん)”というような発音だった気がする。――おそらくその呼称は、ソンジュさんに向けられたものだとは思うのだが。
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