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――一週間の、恋人契約。
にわかにそう言ったソンジュさんは、その透きとおった水色の瞳で僕の目をじっとまっすぐ見つめてくると、「驚かれましたか」と平坦な声で、何か口振りでばかり僕のことを気遣ってくる。
「………、…」
僕は正直、ゆるんだ口を開けたままで何も言葉が出てこなかった。――頭が真っ白だ。
何も言えずに固まっている僕だが、一応ソンジュさんが言ったその契 約 内 容 を理解してはいるのだろう。
現にドッと痛んだ僕の心臓は、次いでやけに急いでドクドクドクと速く脈打ち、僕の手首にある太い血管が重たく、ざわついて感じるほどだ。――僕の体ばかりは、この衝撃的な契 約 内 容 に何かしらの、僕の感情をあらわにしているらしい。
狼狽にくらくらと揺らいでいる僕の瞳は、ソンジュさんの真剣な表情を小刻みに揺らがしている。
「………、…」
恋人契約。――恋人、契約…?
それでも僕はその単語が一瞬理解できず、考えるように目線を伏せた。――恋人、契約。
つまり…――ケグリ氏の性奴隷として貸し出された僕と、一週間(あるいは数日)…僕と、…ん?
性奴隷の僕と、一週間…あるいは数日――恋人関係になる、という…契約?
九条ヲク家に生まれたソンジュさんが? 僕なんかと、期限付きとはいえ恋人になる、…契約?
「……、…、…」
いや、いや、――文字通りの契約かどうかはわからないか。…ただ契約のタイトルを聞いただけで判断するべきではないと、僕はソンジュさんのほうを見直した。
「…すみません、恋人契約…って、正直、僕はいったい何をすれば……」
「…え? 文字通り、俺 の 恋 人 に な っ て い た だ く 契 約 ですが。…」
「……、……」
ポカーンとしてしまう。――文 字 通 り 、だそうだ。
ソンジュさんはニコッと、その水色の瞳をイキイキと輝かせて、僕の片手をそのあたたかい両手で包み込んでくる。
そして彼、まるで童話の中に出てくる美しい王子様のような笑みを浮かべ、またそのような綺麗な透き通った声、そのロマンチックなポーズで――あたかも僕に、真剣な愛の告白をするように。
「…ではユンファさん――どうか、俺の恋人になってください。…」
「………、…」
え、えーと…――え…?
な、なんというか…え? 理解できない僕がおかしいのか? いったい、なんの、ために、…僕なんかを、一週間とはいえ恋人にしたいというんだ?
ところで、かなり今更の話なんだが。
ソンジュさんの私 という一人称が、何かカジュアルに俺 となると、…何となくこの清潔そうな彼も男なんだなぁと思ってしまうのは、僕が変なんだろうか。
こんなに上品な人の一人称が俺だとは…いや、――私生活でも私という一人称を使っているほど、ソンジュさんはご年配の紳士というわけでもないか。…三十代前半かそれに近いくらいの二十代男性だろう彼なら、当然といえばそうだろう。
いくら名家の九条ヲク家生まれのソンジュさんであったとしても、その年代の男性なら、俺か僕を使っているほうが自然だ。
二十代後半の僕でさえ僕 と使っているわけだし、いや、思えば別に意外に思うようなことではなかった――ちなみに僕が私 を使わないのは、以前から使い慣れているというものあるが…何より、今はメス奴隷とされている僕のせめてもの秘めやかな抵抗、この一人称が僕の男としての最 後 の 砦 なのである――。
えっと、思わずあらぬ方向に思考が、…それで。
あ…あぁそっか、ソンジュさんは作家先生。――そして作品のために性奴隷である僕の話を聞きたがるような人で、…もしかして、作品のためか。
ただ、だとするのなら困ったことに、と――僕は目線を伏せて、白状する。
「…ソンジュさん…すみません、僕、その…――あ、あの、先ほどなんとなくはお話しましたけど、…恋愛経験は、正直そんなになくて、それだと性奴隷より、よっぽどお役には……いや、ぁ、でも、…“DONKEY”での恋人プレイを、一週間やればいいってだけの話か…」
つまりああいう感じを一週間、実生活込みでやればOKという話なら(僕個人としてはできる自信はないが)、まあ理解もできるし、やれと言われるのならやるしかない。
それならまあ…――。
「駄目ですそれでは。」
「………、…」
え。えぇえ…――それじゃ駄目って、じゃあどうしろというんだよ。
僕は恐る恐る、上目遣いにソンジュさんを見た。――もちろんそれで媚びているんじゃない。…じゃあ僕はどうしたらいいんですか、と下手 に出ているのだ。
「あっ可愛い」
「……、ぁ、あの…じゃあ僕は、どうしたら…?」
駄目であった。嬉しそうな顔で可愛いと言われてしまった。――するとソンジュさんは、ふふ…と妖しく目を細めて笑い、…ずいっと僕にその美しい笑みをかなり寄せてくる。
「……、…」
近。僕はとっさに顔を背けた。
しかしソンジュさんは、僕の頬の真隣でしっとりと甘い声を出してくる。
「それは…追々、家に着いてからご説明いたしますから――まずは、キスをしても…?」
「……ぇ゛…あ、あの、それは…恋人、として…ですか…?」
近。…めちゃくちゃ近い。――ソンジュさんが話すたびに彼の生暖かい吐息が頬にかかって、ぞく、とする。
「…もちろんです。――さっき、あのキモいガマガエルの汚い精液を舐め取られたのでしょう…? ユンファさんの口の中に、あの変態クソオヤジの精液が残っているなど、とても俺は耐え切れません。だから俺が、全部…舐め取ってあげる……」
「…………」
もはやケグリ氏は、はっきりとさんざん言われている。
僕は、正直どうしたらいいんだかわからないが――まあ、とどのつまりは『DONKEY』でやっているようなことの、も う 少 し ソ ン ジ ュ さ ん の こ だ わ り が あ る 版 を求められているのだろう。
それもまあ、ある意味では僕が性奴隷であることを前提に、という話だ。
「…正直、まだどうしたらいいかは、わ、わからないんですが…――どうぞ…キスは、お好きになさってください…」
と、許可するなりソンジュさんはふふふっと嬉しそうに笑い、――背けられている僕の片頬を片手で包み込みながら、そちらへと向かせると。
「……じゃあ…失礼しますね、ユンファさん…」
「……、は、はい…」
彼、僕の胸が思わずムズムズしてくるような、うっとりと妖艶な目をして、僕の目を見つめてくる。
そしてソンジュさんは、ゆっくりとまぶたを伏せつつ、僕の唇めがけて顔を寄せてきながら、その美しい顔を傾けて…――。
ガチャリ。
「お〜またぁ〜。なあボクぅ、無事上手くいっ………」
「…………」
「…………」
そのタイミングで、モグスさんが、…帰ってきた。
ソンジュさん側の扉を開けて、フランクかつ陽気に声をかけてきながらも――キスをする、僕たちの唇同士が触れるギリギリのタイミング(あとわずか何ミリという距離)で腰をかがめ、車内を覗き込んできたモグスさんに。
「…………」
「…………」
凍り付いて固まる僕らは、目の光を失っている。
「うわぁごめーん……ほんとごめーん、お取り込み中でしたか……、あ…すぐ出発いたしまーす……」
そんな僕たちに何 か と 察 し た モグスさんは、…バタンッと扉を閉めた。
「…チッ、クソジジイ……、グゥゥゥゥ゛……」
「…………」
そして、ソンジュさんの悔しげな怒りの唸り声が、この車内に満ちる。――僕は、そっと目を瞑った。…恥ずかしい。火がついたかのように顔中があっつい。
この至近距離でソンジュさんの険しい顔を見ないようにと、…こんな美形が契約上とはいえ、この人が一週間も僕の恋人だなんて、…――僕は、そうして僕の目を塞いだのだ。
つづく
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