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――チィンッ
いま高らかに目的地到着を教えたエレベーターのベルに、ガーッと音を立てて左右に開いたエレベーターの扉。…そして、まだ目的地へたどり着いていない僕たちを残し、先ほど乗り込んできた人々がみんなそろって、このエレベーターからぞろぞろと降りて行く。
「…はぁ……」
僕は安堵のため息を吐いた。
人がいなくなればさすがに、ソンジュさんも離れるだろうからだ。――そうしたらトレンチコートも着られる。
「………、…」
というかあの人たち、どういう目で僕らを見ていたのだろう。――僕は怖くてとても見られなかったのだが、きっとかなり僕らを軽蔑したんだろうな。…ソンジュさんも、…彼に迷惑をかけてしまった。
「……、…」
「…ユンファさん…?」
「……、は…あ、あの……」
ユンファさん? じゃない、普通に。
ソンジュさんは、このエレベーターに一人も人がいなくなったというのに――この至近距離、僕を体で囲い込むような体勢を変えない。
僕は、さすがにそっとソンジュさんの胸板を軽く押して、離れてください、と示す。
「ありがとうございました、もう大丈夫ですから…、…」
「…………」
「…………」
しかしソンジュさんは離れてくれない。――それどころか自分の胸板にある僕の手、手首を取り、…エレベーターの壁に、軽く押し付けてくる。
そして、僕の背けた横顔をじいっと至近距離で凝視し、――彼、ぜんぜん離れてゆく気配がない。
「…、すみませんソンジュさん…トレンチコート、着させてくださ…」
「…はは…耳、敏感なんですね」――と、ソンジュさんが、僕の耳にちゅっとキスをしてきた。
「…ぁ…っ♡ ん、ご、ごめんなさ、…」
耳も頬も熱い、気を抜いて声まで出てしまった。
いや、本当は近いです、離れてくださいと言いたかった僕だが――そもそも僕は、…僕はケグリ氏に、性奴隷としてこのソンジュさんに貸し出された身なのだ。――つまり、いくら僕らが結んだ契約が“恋人契約”とはいえども、実質上今の僕のご主人様は、このソンジュさんなのだ。
ケグリ氏も、ソンジュさんには逆らうな、とのことである。……そう思い直し、僕はこの状況を受け入れることにした。
「…耳、感じやすいんですか…?」
「…は、はい…性感帯なんです…」
耳が性感帯だ、という僕の言葉に、なにか嬉しそうな様子のソンジュさんは、僕の耳元で「そうなんだ、可愛いですね…」と甘ったるく囁いてきた。――重たく鈍いゾクゾクが甘く僕の耳に、首筋に、…下腹部に響き、目まで潤んできてしまう。
「ピクピクしてましたよねユンファさん、ふふ…声も一生懸命我慢して、頬も染めて…、目まですこし潤んでますよ。…本当に可愛いな…」
「…ふ、♡ ん、…っか、感じちゃって、正直…浅ましく…、ごめんなさい……」
僕が可愛い、可愛いと喜んでいるソンジュさんが今の僕のご主人様なのだから、これはつまり性奴隷冥利に尽きる。…と思う僕はじっさい不思議と嫌な気持ちはなく、ただまあ嬉しいということもないのだが――よかったですね、というような、どこか他人事の気持ちが僕はいま一番強い。
「…こっち向いて…」
「…ぁ、はい…」
僕の手首を離し、ソンジュさんの指先が優しく、僕の片頬に触れて誘導する。それに従って僕は、ゆっくり彼のほうへと顔を向けた。――「キスをしても…?」…真剣な顔をしながらも、優しい声で僕にそう聞いてくるソンジュさんに、僕は逡巡した。
別にさっき言った、好きなようにして構わないというのは、本当のことだったのだが。
「…その……」
車内、それもカーテンを締め切った後部座席で、執事である、すなわち関係者であるモグスさんに、僕たちがキスをしていたことをバレる――というのと、…いつ誰が、何を発信するかもわからない、このマンションの住民の人々に、こんな性奴隷そのものの姿をした僕と、九条ヲク家のソンジュさんが、キスをしている姿を見られる。…というのは、それこそ訳が違ってくるように思う。
下手したらソンジュさん、レイプ犯とさえ勘違いされてしまうかもしれない…、まあ、もう今更といえば今更なのかもしれないが――そもそも僕らは、今自宅へ向かうエレベーターに乗っているわけであるから…何も、今じゃなくてもいいんじゃないか。
「…これ以上、キスをしているところを誰かに見られたら……」
「俺はそんなこと構いません。…」
「……、困ると思いますよ、何か…たとえば、週刊誌に載せられたら…とか…――家に着いてからでも、いいと思いませんか…?」
ソンジュさんの家に着いてからでも、何ら問題はないというか――そう待つほどのことでないのは明白である。
「嫌だ。今したい…俺はユンファさんと、キスがしたいのです。」
「……、……」
なんの…こだわりなんだか、知らないが。
駄々をこねる子供のようで、…――困る。だけだ。
「……っ」
ソンジュさんはガバリと突然、僕を抱き締めてきた。
そして僕の耳元、彼は少し寂しそうな声で。
「…いえ、わかりました。ユンファさんが嫌なら、キスなんかしません。――我儘を言いました。…反省しています…」
「………、…」
僕の耳元でキュゥ…と小さく鳴くソンジュさんに、ムズっとした僕の胸。――これはその実、彼にはとても打ち明けられない、大変失礼な話なのだ。…正直完全に、僕の今のこの胸の疼きの原理は、説明がつく。
というのは…なぜか今ソンジュさんに、ご 主 人 の 言 う こ と を よ く 聞 く 優 等 生 の 犬 が、健気に「待て」を頑張っている姿が重なった。――つまり、そうした何とも言えない(犬の可愛さ的な)愛おしさを覚えてしまったがゆえのム ズ っ であったのだ。
「…キスは我慢しますから、でも、抱き締めることばかりはどうか、お許しください……」
「……、…」
なん、というか、これは…殊勝な…――シンプルに、(犬的に)可愛い、と思ってしまった。…僕もなかなかド失礼である。……ただ、抱き締めるというのもそれだけでなかなか、僕の懸念を擽ってくるものではあるのだが。
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