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              「………、…」    僕は今、まるで恋の告白をされたような気分だった。  そっと手を伸ばした。ソンジュさんの悲しげな青白い頬に手を伸ばし、震えながら彼の片頬に触れた。    あたたかい。――僕の手はなぜか、とても指先が冷え切っていた。…ソンジュさんの頬がとてもあたたかい。   「……ずっと…、……ずっと僕…、…」    誰かに、そう言ってほしかった。  でも…――気持ちがふわりと浮き上がって、   「……ふふ…、……、…」    下がる…僕は――目線を伏せた。  でも…もう遅い。――もう今更そんなこと言われても、僕はもう取り返しのつかない体になっている。   「……他の方と同じように…僕に、きちんと指示をしてください…――ソンジュさんの思い通りの振る舞いができるように、努力します……」    僕はずるかった。  臆病になったのだ。  もし本当に、本当の意味でソンジュさんが、僕に恋をしてくださっていたら…――ふっと今そう考えていた、先ほどまではそう考えていたが、今の僕はそんなこと、万に一つもありえないと考えている。    怖かった。――ソンジュさんのことをもし僕が好きになってしまったら…契約が終了したときが、僕は怖かった。    怖いのだ。…僕だけが、優しくてロマンチックな彼をどんどん好きになって、それなのにまた、モウラのように豹変したソンジュさんを見ることになったら…――僕は怖くて怖くて仕方がない。    というか…――どうせそうだから。  僕なんて、ソンジュさんに愛されるわけがない。――ソンジュさんのように魅力的な人ならばともかく、僕なんかが彼に、恋をしてもらえるなんてありえないのだから。    それに…他の女性ともこの“恋人契約”を結んでいるというのなら、ソンジュさんがこれまで僕に向けてきた優しさは、彼にとっての特別な優しさではない。――他の方にも同じように優しくしてきた上で、もしかするならばその彼女たちとの失敗があるからこそ、僕を大切に、慎重に扱っているというだけなのかもしれない。    あるいは、女性ばかりとその契約を結んできたというのなら――普遍的な、中性的なオメガ男性ならばともかく――僕のような容姿のオメガになど魅力を感じず、そもそも抱くまでは至れないのだろう。だからキスはしても、ラブホテルには行かなかった。    僕なんか、僕なんか、僕なんか…――どうせ誰かに利用されるだけの、馬鹿なオメガだ。…おもちゃで、肉便器で、家畜で、――性奴隷の、オメガだ。   「いえ、ユンファさんはそのままで十分です…」   「…そのまま…、性奴隷のオメガのままで、いいんですね。わかりました…」    ありえない。  ありえないじゃないか。    出会ったばかりの惨めな性奴隷が、どうしてこんなに優しくて美しいソンジュさんの、特別大切な人なんかになれるというんだ。    やっぱり嘘だ。どうせ演技だ。  ソンジュさんは作家だから、ロマンチックな言葉なんかいくらでも知っているんだろう。――人の心をたやすく見透かせるようなソンジュさんは、僕を安心させ、喜ばせる言葉がいくつも簡単に思い浮かぶんだろう。   「…そうではなくて、…ユンファさん…信じてください、俺は本当に、貴方を…」   「…ええ。信じています……」    僕が嘘をついても、貴方にはバレている。  それがわかっていて、僕は嘘をついたのだ。    僕はソンジュさんに、当て付けのように嘘をついたのだ。――貴方のことなんて信じられないと、僕を利用して、…僕の心まで利用して、もてあそぶ貴方のことなんか、信じられるわけがないと。――最低かもしれないが、卑屈すぎるかもしれないが、…どう考えてもありえないし、起こりえないし、賢いソンジュさんの策略だとしか思えない。   「…貴方のお役に立てるなんて光栄です。でも――僕なんかがモデルで、素敵な物語が、書けるんでしょうか…」    でも――もしも叶うのなら、僕は。  僕のことをモデルにした登場人物が出てくる、素敵な小説が読みたい。――ソンジュさんが書いた作品は、どんなものなのだろうか。   「…いえ、そのために僕ができることなら、何でもします。言ってください…指示してください…――()()()()()()()()」    どんな話だろうか。悲劇だろうか。喜劇だろうか。物語の中でだけでも、僕は幸せになれるのだろうか。   「もしかして、ハッピーエンドでしょうか…――それとも……」   「……ユンファさん」    ソンジュさんは慎重な低い声で僕の名前を呼び、そして僕の髪を撫でた。   「――貴方に信じていただけるように、俺が努力します。…貴方が努力することは何もありません。それに、ユンファさんが疑うのは無理もありませんから、…すべて俺の自業自得です。…」   「…………」   「…ただ俺は…――たとえどんな手を使おうが、絶対…」   「……っ、…」    ソンジュさんは不意に、うつむいている僕の顎を掴んでグッと上げた。――ハッとし、見開いた僕の目に映るソンジュさんは、…彼もまた、狩りをする獣のようにその切れ長の目を見開き…淡い水色の瞳で僕を、じっと見つめてくる。…狼の目だ、そう思った僕の耳に、彼の獣のように低い声が、こう言った。       「…この一週間以内に――絶対にユンファさんを、本気で俺に惚れさせてみせる。」           

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