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              「………、…」    僕の目を、塞ぎたい。――僕は意味がわからなかったが、その切実な声がなぜか心地よく…そっと、ソンジュさんの腕の中で目をつむった。   「…ユンファさんは、これまでに見なくてもよかったものを見すぎたのです――貴方はもう何も見なくていい、…これからは俺が、貴方の目を塞ぎます…」   「……いいえ」    貴方が僕の目を塞いで、辛い現実を、僕が見たくないものを見えないようにしてくださったとしても――それはたった一週間ばかりの魔法、一週間だけの甘い夢だ。    それは、ソンジュさんが一番わかっていることだろう。――僕は一週間という期限付きの、契約上の恋人であるということを。…ソンジュさんがそう決めたのだから。    一週間後の僕は、またただの性奴隷に戻る。  おもちゃなのだ。――都合の良い存在に戻るのだ。  醜い男たち…彼らのグロテスクな勃起、ニヤついた目、軽蔑の眼差し、僕のことを見る欲情した目――淫乱な自分、惨めで情けなくて、弱々しい自分…首輪を着けられて飼われ、乳首にピアスをつけられて奴隷になり、そして僕の下腹部に彫られたタトゥーは、僕の一生がどのようなものになるのかを指し示した地図だ。    それなのに、そんなことを言うのはあまりにも軽率じゃないか。――まるで、もう二度と辛い現実を見なくてもいい、という意味のようじゃないか。  今だけの言葉…どうせこの人も口ばっかりに決まってる、そのつもりなんか、毛頭ないくせに――。   「…僕の目は、もう何を見ても大丈夫です。何も、もう怖くはありません…ですが、ソンジュさんのその優しいお気持ちだけで、僕は救われました。――ソンジュさんは、まるで神様のようですね」    僕の目は開いている。――いつだって僕の目は、開いていなければならない。…目を逸らすこともある。目を瞑ることもある。目を伏せてしまうこともある。――僕は、自分で自分の目を塞ぐことができるのだ。   「…でも、何も見えていないのは…目を塞いでいるのは、貴方だ――ソンジュさん…」   「……ええ…、その通りです…」    僕のうなじを、首輪ごと上下にゆっくり撫でさすってくれるソンジュさんの手が、あたたかい。――心地良い。…うなじを撫でられているのに、なぜだろう。   「…それでいいと思います。――見なくていいんです…、僕は、貴方には許されてほしいんです」   「…いや、貴方こそ許されてよい人です、ユンファさん」   「……、いいえ…」    僕はずっと、許されたかった。  だから左耳に、十字架のピアスを常につけている。  でも、神は僕を許さない。――許してはくださらないのだ。…僕が淫蕩な悪魔、淫魔のようだからだろう。    祈れど祈れど、僕に救いは訪れず――どんどん、どんどん、僕は地獄に堕ちて行ってしまう。…今もなお、僕は地獄に堕ちている最中だ。    優しい地獄…――まるで、天国のような地獄。  淫魔にはとても肩身の狭い、神様が住んでいる地獄だ。   「いいえ、ソンジュさん…いいえ…許されるわけがありません、僕なんか……」    涙が頬を伝ってゆく感覚がする。  こんなに優しい神様のお側に、僕のような淫魔が居るなんて――許されるはずがない。   「…貴方が神様なら、僕はさながら淫魔なんです…許されません。――僕はもう、許されないんです」    僕を強く抱き締めてくる、優しいソンジュさんの体に包み込まれて――あたたかい。…切実な、貴方の声が。       「ユンファさん…――俺、本当に貴方を愛しています…」     「……、……」    嘘だ…――嘘だとわかっている。  一週間恋人で居るための嘘だ。――貴方の都合の良い、嘘だ。……嘘、嘘だ、ありえない。ありえない、ありえない。僕なんか、…ありえない。   「…ありがとうございます…」   「…ユンファさん……、…」    ソンジュさんは僕の体をするりと手放し、…険しいだろう泣き顔の僕を、複雑そうな目で見るなり――濡れた僕の頬を、そっとそのあたたかい指で拭ってくれると、彼は。   「……どうしたら貴方は、――いや、俺が悪いんだ、俺が悪い、…とにかく、落ち着いて…、まずは、家に入りましょうか…」    どこかぼんやりと僕の顔を眺めながら、ソンジュさんは少し動揺したようなか細い声でそう言った。――それからさっと俯き、彼は自分の左腕を右手で掴む。  すると顔を青ざめさせ――口の中でソンジュさんは、   「俺が悪いんだ…俺が…俺が悪い、俺が悪い、俺が悪い俺が悪い俺が悪い……」    こう…ボソボソと繰り返し――ぎゅう、とワイシャツを纏う自分の左腕に右手の爪や指を食い込ませ、…ガリガリと強くそこを引っ掻く。   「俺が悪いんです、ごめんなさい、俺が悪いんだ……」   「……、…っ」    僕は思わず、ソンジュさんの右手の手首を掴んで止めた。――反射的なものだった。…白いワイシャツの袖に、小さく滲む赤が見えたからだ。  卑屈になっているとか、焦りでもはや、そんなの全部ふっ飛んだ。   「…ソンジュさん…、血が、…」   「……ごめんなさい…、癖なんです…追い詰められると、こういうことをしてしまう…、ご心配をおかけして申し訳ありません……」   「……、…僕は、大丈夫ですから…、とりあえず家に入りましょう…、ね…?」    僕は小さな子供に対するような優しい声が、自然と出た。――僕がソンジュさんを、こうしてしまった…彼を追い詰めてしまったのだというという罪悪感が、あるからなのかもしれない。           

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