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                 ソンジュさんが玄関扉横の、生体認証のパネルに片手を翳すと…ガチャリ。――そう音を立てた扉は、どうやらそれだけで鍵が開いたらしい。  そしてソンジュさんはその扉のドアノブを掴んでひねり、開いた。   「……では、お先にどうぞ。…」   「…ありがとうございます、おじゃまします。…――。」    僕がおずおず踏み込んだ先の玄関は…明るいが、まるで夕日の明かり――そんなあたたかい色で照らされている、だだっ広い玄関…だろうか?   「………、…、…」    いや、玄関だ、外から入ってきたのだし、此処が室内への入り口、玄関だろう。  実家の僕の部屋よりも広い。それに何かふんわりと良い匂いが漂っている。…少し草っぽい、さわやかな花の香りそのもののような匂いだ。…あぁ、家族旅行で行った南国の、そのリゾートホテルのロビーに香っていた、あの格調高い花の香りに似ているかもしれない。――懐かしい。    えっ…――二階への階段がある。  マンションなのに…黒い手すりに、白い階段――上にも部屋があるようだ。   「……、…」  ところで――玄関にこんな広さは必要なのか?  いや、よそ様の家に失礼だろうが、そう思うくらい本当に広い。…仮に此処で寝泊まりをしろ、と言われたとしても、178センチの僕がのびのび脚を伸ばして眠れるくらい広いのだ。――タタキ、らしき場所は靴の一足もないが、僕は此処でも眠れるだろう。いや、白に濃紺のブルーが混じった大理石でできているようだから、冷たいし硬いか。    でも、手足を拘束された状態で穴という穴にバイブを突っ込まれ、その上で狭い押し入れに入れられるよりはマシだ。むしろ、此処なら天国とさえ思えるかもしれない。   「………、…」    タタキと室内への道――コーヒー色のフローリング、長いペルシャ柄の絨毯が敷かれている、十メートルはありそうな真っ直ぐな廊下――の段差はわずか十センチほど、タタキと廊下の境い目から五センチほど開けて敷かれた黒一色の細長い玄関マット、その黒のマットの上には、浮かぶように淡い色のスリッパが二足――薄紫色と、淡い水色だ――。  いや…僕にはこの段差の浅さすらもはやもの珍しい。僕は実家にしろ今の家にしろ、腰掛けて靴を履けるような、五十センチほどの段差に慣れているからだ。  ふ、と隣を見れば、――これすら高そうに見える木製の、背もたれがなく丸い座面の椅子、そしてそれに立て掛けられた金色に取っ手には黒い革の、…細長い靴べら。   「……、…、…」    わざわざ靴を履くための、専用の腰掛け椅子があるのか?   やっぱりお金持ちは、庶民と違うんだな…?   「……、何してるんですかユンファさん。靴も脱がずにぼーっと突っ立って…入らないんですか。――あぁまさか、まだ性奴隷の自分なんかがなんて…」    と、先ほどの自責の感情に引き続きか、やや沈んだ声で僕の後ろからそう声をかけてきたソンジュさんに、僕はビクッとして。   「あっあぁいえ、…つい見惚れてしまって。――お金持ちの家って、こんな…、凄いですね、此処で普通に生活なさっているなんて…、僕には、信じられません……、…」    僕は夢でも見ているのか?  天井があんなに高い…大きなガラスのシャンデリア、いや、お金持ちならガラスなんかじゃなく、もしかして全部ダイヤモンドだったりして…ていうかシャンデリア? マンションなのに? ある意味で異世界だ。  どうしてもこの場所は、僕にとって非現実的だ。――いっそ僕にはファンタジーですらあるが、此処で現実を営んでいるというソンジュさんが。   「……はあ…、いや信じられないと言われてましても、俺は正直、こういう家にしか住んだことがありませんのでね…――まあ、俺なんかは逆に、もう少し手狭なほうが落ち着くような気もしますが…、…」   「…ぅゎ…生まれたときから、それこそ想像もできないな…、…」    引くくらいのすごいお金持ち発言だな、とは思うのだが、圧倒的なお金持ちである九条ヲク家生まれのソンジュさんのそれは、僕にはむしろ何も嫌味に聞こえない。…不思議なことに、圧倒的だともはや妬み嫉みの感情は沸き起こらないものらしいのだ。    この夕日色の明かりは、あのキラキラと一つ一つのクリスタル、のような結晶が輝くシャンデリアから灯っているものらしい。――もしかして全部ロウソクか? いや、まさかそこまでファンタジーではないだろうか。       

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