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                   ――やっぱり…まだ、罪悪感はある。  それに…胸がつっかえるような、抵抗感があるのだ。      でも…隣で、やり過ぎなくらいソンジュさんが「わぁえらいね」「すごいすごい」「こんなに飲めたんですか、すごいな」「もう一本飲みきってしまうじゃないですか?」と応援し、とにかく――ふふっとなるくらい、僕が水を飲めるたびに褒めてくださって、…その罪悪感や、抵抗感が、完全には消えずとも。  ごまかされ、そして――本当に怒らない、むしろニコニコして褒めてくれるソンジュさんに、安心して。   「……やったね、ユンファさん。一本飲めましたよ」   「はい…、ソンジュさんの、おかげで」    僕はなんと、500mlのミネラルウォーター一本を、ソンジュさんの前で完飲することができた。――僕がお礼を言おうと振り向けば、…端正なその顔が柔和に微笑んで、優しい目をして僕を、見ていた。   「…はは、また一歩前進ですね。」   「……ええ…、ありがとうございます……、…」    どうしよう…――どうしたら、…いいんだろう。  僕はうつむき、空になったペットボトルを両手で包み込んで、それをぼんやりと見ている。    透明なペットボトルの内側に、残った小さなしずくが、つぅ…と下へ、ゆっくり伝い落ちてゆく。    どんどん…好きになっていってしまう。  僕はどんどん、ソンジュさんを好きになってゆく。    ソンジュさんに対しては、助けてくださった、というような…感謝や、恩義の気持ちも強い。――でも、それの裏に隠れている気持ちの形を見ようとすると、…それは、僕を責めてくる。  ありえない。どうせボロボロに傷付く結果になるんだ、そうに違いないんだ。――だから、はじめからやめておけ。はじめから諦めろ。何も期待するな。…どうせお前なんかには、幸せな恋などできるはずがないんだ。また何かしらの利益のために、お前に優しくしてくれているだけだ。――お前なんか、公衆便所のお前なんか、肉便器のお前なんか、性奴隷のお前なんか――誰かに、愛されるはずがないんだぞ、と。   「結婚してくだ……」――駄目だ。  考えないようにしなければ。   「……、……、…」    怖い。――意味がわからないからだ。  誰かに愛されるはずもない僕が、こんなに素敵なソンジュさんに、…ありえない。理由がない。愛してもらえる理由も、魅力も、何もない。僕には何もないのに、――ありえない、ありえないありえないありえない、…駄目だ、またパニックになってしまいそうだ。  震えてしまう唇を噛み締めて、僕は、すんっと鼻を鳴らした。――ソンジュさんは隣で、カサカサと何かを開けている。   「…怖いね…、でも、大丈夫だよ…、此処は安全なのだから、何も怯えなくてもいいのです…はい、どうぞ。」   「……、……」    僕の手から空のペットボトルをするりと抜き取り、ソンジュさんは、それをランプのカサの下へ置いた。――そしてあいた僕の片手に、紙カップのマフィンを手渡してくる。   「……お腹も空いているでしょう。眠る前に召し上がられてください。――まあ、ちょっとした軽食ではありますが…、まだ夕飯までには時間がありますし、モグスさんは、まだ帰らないようですので…」   「…ありがとうございます…、…」    僕は手に持たされたマフィンを見下ろす。  ゴロゴロとたくさんの具材――ナッツまるごとや、二センチ角ほどのフルーツ、…角切りのチーズ…? なんかが、ぎっしり――入ったそのマフィンは、…かなり大きい。  女性の拳くらいはあるんじゃないだろうか…――凄く、大きい。…大きい上に、ふかふかの生地よりも、ゴロゴロたくさん入った具材のほうが、全体を占めている割り合いが多いように見える。   「…モグスさんの手作りマフィンです。…昨日の軽食に出されたのですが、すっかり食べそびれていてね…、俺が残したもので、申し訳ありませんが」   「ぁ、あぁいえ、そんなとんでもない…、…」    むしろ、こんな贅沢なマフィン、僕は初めて見た。  たしか以前、マフィン専門店ブーム…だかなんだかのとき、母さんがわざわざ買ってきて食べた、あのマフィン…よりも具材がたくさん入って、サイズも大きい。――いや、たしかあのマフィンも美味しかったとは思うが、何分ゲームをしながら食べてしまったので、味の記憶があまりない。   「………、…」    あぁ…そんなことも、あったな。  懐かしい…――母さんたち、今どうしているだろう。  本当に、大丈夫なんだろうか。――ケグリ氏たちに、何かされたり…、僕は不安になって、ソンジュさんのほうへ振り向いた。   「……あの、ソンジュさん…、僕の、両親…僕の両親のことって、本当に……」   「…ええ、もちろんお約束します。…それに、ご不安なんでしょう。――ユンファさんのご両親が、ケグリたちになにかされやしないか…と、ね。…しかし、その点も心配いりません」    ソンジュさんはふっと目を細めて笑うと、肩をひょいと竦めて見せ。――それから前かがみになり、また冷蔵庫の扉を開ける。   「…大丈夫、クリスさんやユジョンさんを派遣したのは、監視の目的もあると言ったでしょう。――そのことだけでも、どうか信じてください、ユンファさん。…」   「………、…」    そのことだけでも、というソンジュさんの言葉に、チクリと胸が痛む。――罪悪感なのか、…いや、罪悪感は確実にあるのだが、…本当は…ソンジュさんを信じたいと、思い始めている。   「……そんな悪さをしようものなら、まず酷い目に合うことでしょうね。大丈夫ですよ」   「……ありがとうございます…」    ソンジュさんは「いえ」と短く返事し、冷蔵庫の中から今度は、黒い水筒と…――白い紙。     「……?」      いや、一枚のファイルを、取り出した。           

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