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「…………」
ひた、と手を止めたソンジュさんは、伏せ気味になった僕の顔をじっと見下ろしているらしい。――僕は気後れから目線を伏せたまま、…それでもきちんと、伝えておきたい。
「…優しい嘘を貫き通してほしいんです…、そうしてくださったら、もうそれだけで…僕は十分幸せだ…――それ以外、もうこれ以上は、僕…何もいりません。…ソンジュさんが、僕を甘い夢で騙しきってくださるなら、何でもします…、僕のこと、利用してくださっても、貴方なら構いません」
ここまでしていただいて、どうしてこれ以上のものを、ソンジュさんに求められるだろう。――こんなに幸せになれて、こんなに満たされている。…僕がソンジュさんに返せるものなんか、きっと何もない。――それでもソンジュさんは、僕を選んでくださったのだ。…“恋人契約”の相手に、僕を選んでくださったのだから、ソンジュさんは何かしら、僕 に 求 め て い る も の があるはずだ。
僕に何か返せるものがあるのなら、僕は、努めてソンジュさんのお役に立ちたいと思う。
「…僕、馬鹿ですから…なんにも知らないし、本当馬鹿だから、僕を最後まで騙しきるなんて、ほんと訳ないでしょう…――馬鹿な箱入り息子だったんだなって、さっきも本当に思いましたし、…恋とか愛とか、本当に…僕、何も知らないから……」
「……ふふ…」
笑ったソンジュさんは、僕の頬をするりと撫でて。
「…なんて可愛らしいことを言うんだろうね、貴方は…、健気で、ユンファさんのことがより愛おしくなります…」
「……、……」
ソンジュさんはすっと僕に顔を寄せ、「ですが」と僕の唇に触れる距離で言ってから、ちゅっと口付け。――僕が思わず目線を上げ、見た間近な距離にあるソンジュさんの淡い水色の瞳は、とても勝ち気に笑っている。
「…嘘 を 言 っ て い る のは、むしろ貴方だ、ユンファさん。…」
「…………」
僕の目をじっと見つめているソンジュさんは、する…と僕の片耳に、僕の髪をかける。――その人の双眼は、とても真剣でまっすぐなものだ。
「…貴方は馬鹿じゃありません。…知らないことがあるというのを、恥じる必要などないのです。…むしろ本物の馬鹿というのは、自分のことを賢いと思い、何でも知っていると勘違いしている者だ。――無 知 の 知 …という言葉があるように、自分は何も知らない、だから知らなければ、と思っている者のほうが、よほど賢いのですよ。…」
深みのある低い声でそう言うと――ふふ、とソンジュさんは心得顔で笑い、くいとその小さな顔をやや傾ける。
「…何でも知っている人など、この世の中には一人もいません。…俺もまた、何も知りません。…各々の、人生の道筋に沿った知識しか得られないのは、誰しもがそうです。しかし――重要なのは、今の自分の知識量ではないのです。…その道筋以外のことを知りたいと思えるか、そして、その知ったことを理解しようと思えるか、どうかだ。…」
「…………」
ソンジュさんは、ね…と優しく、柔らかくその切れ長のまぶたを細める。――そして、僕の目を覗き込んでくる。
「…得た情報を、自分なり噛み砕き、考え抜くこと…そして、その考え抜くという行為に、主観も客観も加えること…一つのことを、多方面で考え抜く力。――想像力こそが人の賢さだ。その想像力を思慮に変えられる人が、真に賢い人なのです。…知識量ではありません。知らないことがある人が馬鹿なのではなく、考える力、想像力に欠ける人こそが、馬鹿なのですよ。」
「…………」
ソンジュさんの言葉が、す…と僕の胸に落ちてきて、卑屈に締め付けられた僕の心の拘束が、ふんわりと解けてゆく。――その人の美しい水色の瞳から入り込む清流が、僕の心に流れ込み、その鎖を洗い流して、優しい水の力で解いてゆくのだ。
ふんわりと、愛おしげに微笑むソンジュさんの顔が、本当に穏やかであたたかく、とても美しい。
「…人としての賢さと、知識量の多さならば、よほど役に立つのは人としての賢さだ。…つまりユンファさんは、大変賢い人なのです。――なぜなら貴 方 は 、俺 に そ の こ と を 教 え た 人 なのだから。」
「……え…?」
いつ、僕が彼にそんなことを教えられたのだろう。
僕は疑問だったが、ソンジュさんは「その話はまた追々ね」と意味ありげに笑った。
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