289 / 689

18

                「……――。」    つー…と、ソンジュさんの薔薇色に染まった頬に、静かな涙が伝う。――そして彼はしばらく、僕の目を、ゆらゆら水面の下で揺らぐ瞳で、ただじっと見つめていた。      それからややあって、ソンジュさんはどこかぼうっと、こう呟いた。     「……俺、…貴方がいなければ、生きてゆけない…」   「……、…っふふ、…」    僕は、ふっと笑った。――泣いていて、苦しげな顔になってしまったかもしれないが――彼、子供みたいな顔をして、まるで大人に助けを求めているように、そう言うからだ。  そして、僕に抱き着いてきたソンジュさんは、僕の耳元で「…ありがとう…」と、震えた声で呟く。   「…あなたが、愛してくれるから…やっと、生きてゆけるような気がする……」   「……うん…、…」    子供みたいな、少しだけたどたどしい口調のソンジュさんを、僕はそっと抱き締める。――「いい子だね、ソンジュ…」そう声をかけて、彼の濡れた髪を撫でる。  目を瞑ると――僕の腕の中にいるソンジュさんは、小さな子供だった。   「…あなたが好きです、ユンファさん……」   「…僕も、きみが大好きだよ、ソンジュ……」    ソンジュさんの声まで、少年らしい高い声に聞こえてくる。――小さなその体を、包み込むように抱き締める僕は、「大丈夫だよ」と自然、口にしていた。   「…きみのことは、僕が守ってあげる…。ずっと見ていてあげるよ、ソンジュのこと…――笑っても、泣いても…我儘を言っても、いいんだよ…。それでもきみはいい子だ。とっても可愛い…。たくさん我慢をしてきたね。えらかったね…、辛かったよね……」   「……うん…、……っ」    この泡風呂は、もしかすると今は――子宮の中だ。  もしかすると、この心地良い温度のお湯は、お母さんのお腹の中の…羊水なのかもしれない。   「……甘えていいんだよ、きみは…。今まで甘えることを許されなかったのだとしても、僕がそれを、許すから…。よく頑張ってきたね、ソンジュ…もういいんだよ。…もう、我慢しなくていいんだよ……」    しっかり者の子供――手のかからない子供。  でも、どんな子供だって、抱き締められたいに決まっている。…きっと子供は、本当は、みんな大人に甘えさせてほしい。――その甘えたい、というきみの顔を、甘えるな、と叱った大人が、いたんだろう。――甘えてもいいんだよ、と、きみを抱き締めてくれる大人が、いなかったんだろう。    だから僕は、きみを抱き締める。  大事に大事に…――あぁ、あぁ…と、わんわん泣いているきみを、やさしく包み込むように、僕は抱き締める。  まるできみの、親になった気分だ。…だが――。   「…僕はきみのお母さんにも、お父さんにもなれないけれど…僕でよかったら、きみをたくさん愛してあげる。たくさん抱き締めて、頭を撫でて…褒めてあげるし、なんでも我儘を、聞いてあげるからね……おいで、ソンジュ……」    僕は目を瞑ったまま、軽く身を起こし、ソンジュさんの頭をそっと…自分の胸へと誘導する。――彼はあまりにも素直に、僕の胸に片耳を寄せ、くっつける。   「…きみが今まで我慢してきた言葉…言いたかったけれど言えなかった言葉、これからはたくさん、僕になんでも聞かせてね…。大人のふり、もうしなくていいよ…。子供でいても、いいんだよ…――だって、きみは子供なんだから…、きみは無条件で愛されて、無条件で守られるべき、可愛い可愛い子供なんだから……」    ドクン…ドクン…と――僕の心臓が脈打つ。  僕の心臓は、小さな子供を慈しむ音を立てる。  声をあげて泣いている、可愛い男の子の、頭を撫でる。   「…ソンジュは、愛されるべき存在なんだよ…――きみはね、僕にとって、とっても大事な存在だ…。ありがとう…そう言いたくなるくらい、大事な大事な存在なんだよ、ソンジュ…。ねえ――生まれてきてくれて、本当にありがとう、ソンジュ……」    貴方は僕を、助けてくれた。  だから僕は、きみを助けたい――。   「…愛されなかったということを、自分のせいなんかにしたり、しないでね…。もう頑張ってる自分を傷付けたり、傷付いている自分を責めたり、まだ大丈夫…なんて嘘をついて無理をしたり、誰かに甘えたい自分を恥ずかしがって、否定したりしないで……」    貴方は僕に、そう示してくれた。  だから僕は、きみにもこう言う。   「……悲しかったよね、そうするしかなかったんだよね。寂しかったね、辛かったんだよね、ソンジュは…。誰かに、ずっと助けてほしかったんだよね……ずっと、愛されたかったんでしょう…――でも、もう大丈夫だよ…。僕はきみを、愛してる……」    貴方は僕に、それを教えてくれた。  だから僕は、きみにもこれを、教えてあげる。   「…僕は、きみの味方だ。何があっても、僕はきみの味方だよ…。きみが見たくないものは、見なくたっていいから…――きみが見なくたって、大丈夫なんだよ。いっぱいいっぱいなって、きみが壊れちゃうからね…。大丈夫、僕が大人として、きみの代わりにぜーんぶ、見ておくよ。…大丈夫だからね、ソンジュ……」    辛いことや、悲しいこと。  見たくないもの。目をふさぎたいもの。――それを見て、問題をどうにかするのは、大人の仕事だろう。   「…きっときみは子供なのに、いつも、何かの問題をちゃんと見据えて、そして自分で、どうにかしてきたんだね…――頑張ったね、すごく、えらかったね。…でも、だから“問題ない、ぼくは大丈夫”…そう言うようになってしまった。……甘えたいのに、愛されたいのに、無理をして、我慢をして……」    だけどきみは、何もしなくていい。  だってきみは、今、子供なのだから。   「…でも、もういいんだよ。…問題解決…それは、大人の仕事だ…――大人の僕が、全部どうにかしてあげる。きみは何も心配しないで、ただ、幸せに……きみはね、見たいものだけを、見ていていいんだよ。…子供のきみが見るべきじゃないものは、僕が目をふさいで、見えないようにしていてあげる……」    僕は両親に、そうやって育ててもらった。  子供のころの僕は本当に、ただ楽しいことや幸せなこと、見たいものだけを見て、幸せに生きてこられたのだ。  僕の両親は、子供の僕が見るべきではないことに対して、僕の目をやさしく塞いでいてくれた。   「……だけどきみは、いつから自分で、自分の目をふさぐようになってしまったんだろう。――そうするしかなかった…きっときみは、見たくもないものを、これまでたくさん見てきてしまったんだね……」    誰も、子供のきみの目を、ふさいでくれなかったんだろう。  もしかしたら…むしろ、見なさい。ちゃんと見なさい。なに目をふさいでいるんだ。――きみは、そう言われてきたのかもしれない。   「…きみは、見なくていい。…なんにも考えなくっていい。――何かをよく考えられる、とっても賢くていい子でも、なんにも…なんにも考える必要は、ないんだよ。…大人に全部任せていれば、きみはそれでよかったんだよ……」    きっときみは、それを許してくれない大人に囲まれて、生きてきてしまったのだろう。――それでもきみは、文句も言わずに頑張ってきた。   「…よく頑張ったね。えらいね、ソンジュ……」    ひ、ひ、と小さく跳ね、震えている。  僕の胸に抱いた、可愛い男の子の頭を撫で、僕は――その子の目元に、そっと片手をかぶせる。  たとえば、お母さんの子宮の中にいる赤ちゃんは、目を瞑っている。――子宮に、羊水に守られて――お母さんの鼓動を聞きながら、赤ちゃんは安心して丸まり、眠っているのだ。   「……可愛いね、可愛いね…ソンジュ…可愛い子……」    可愛いね、可愛いね…早く元気で生まれておいで――そうお腹を撫でるお母さんの、優しい声を聞きながら。     「……大丈夫…今だけは、僕が――きみの目をふさいで、守っていてあげる……」      今だけは、きみが子供でいられますように…――と。            僕は、きみの目をふさぎたい。               

ともだちにシェアしよう!