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                  「…………」    すると僕の、そのなんとも言えないでいる顔を見ていたソンジュさんは、何か飄々としていながらも――どこか呆れたような笑みをくいと、傾ける。   「…ふっ…ユンファさんが今思っている疑問は、まあ、なんとなくわかりますよ。…俺の両親は、俺のことを心配してくれないような人たちなのか……そういった疑問が、今あるのでは?」   「…、…はい…正直、……」    とてもじゃないが、そのことをはっきり口にすることはできなかったのだが。――しかしむしろ、ソンジュさんのほうがその件について、呆れた笑みを浮かべながらも、明かしてくれた。   「……ふっ…そうですね、――たとえば…俺が小学三年生の冬、テストで98点を取ってしまったときなんか、どしゃ降りの雨の中、家の外に一人で立たされまして……」   「………、…」    僕は、思わず眉を顰めてしまった。  冬…の、――どしゃ降りの、雨の中?  それでなくとも気温の低い冬に、ただ外に立たされるだけでも酷いだろうに、――その上、雨の中?  その冬の冷たい雨に打たれている、小学三年生の男の子が――たった一人で、立ちすくんでいる。   「…ちなみにそのとき、家族はあたたかい家の中、俺抜きで、食事を続けていました。夕飯時でしたので…――俺は外…家の庭からガラス越し、家族が食卓を囲んで笑い合ってる姿を、ただ見ていたな……」   「…………」    息が止まるほど、聞いている僕が辛い。  あたたかい家の中に灯った明かりを、どしゃ降りの雨が降りしきる暗闇のなか、窓の外から眺めている――小学三年生の、びしょ濡れの小さな男の子。  家の中で、自分抜きで楽しそうに笑い合っている、幸せそうな自分の家族…――一方の自分は、たったの一問ほど間違えたテストの罰で、ガタガタ震えてしまうような極寒の中、それをただ眺めているだけ。   「………、…」    お腹だって空いていたに違いない、寒くて寒くてたまらなかったに違いない、暗くて怖くて、悲しくて、悔しくて、寂しかったに違いない…――身も心も冷え切って凍え、とても辛かったに違いない。  ソンジュさんは伏せ気味の、その切れ長のまぶたの下で、薄水色の瞳を暗く虚ろに、翳らせている。   「…そうして食事も抜きで、長いこと冬の冷たい雨に打たれていたものですから……当然俺はあのとき、風邪を引いてしまった…――ですが、俺の両親はそんなときにも、俺のことを心配をするどころか……」    ソンジュさんは伏せた目線の先、翳った淡い水色の瞳を、まるで誰かを睨み付けるかのように険しくした。…しかし、それでいて、馬鹿にしたような歪んだ笑みを、その朱色の唇に宿すのだ。   「…高熱が出ている俺を叱りとばし、いつも通り学校に行かせました。――それでなくともテストで100点を取れなかったんだから、これ以上恥を晒すな、甘えるな、根性を持て…ってね。…」   「…………」    僕は強くまばたきをして、熱くなった目をごまかした。  僕まで悔しいような、悲しいような、なんとも言えないこの感情は、ただの同情にしてはあまりにも熱く、激しいものだ。――怒り、に近いだろう。   「…そして、もっと恨みがましいことを言えば、俺の妹や弟は、風邪でもちょっと引いた日には、大丈夫、辛くない? なんて、チヤホヤ甘やかされて…――一方の、九条ヲク家を背負う俺は、風邪ごときで甘えるな、そんな情けなくてどうするんだ、お前の体調管理がなってないからだ、と叱りとばされ、殴られる……ふ、…」    ソンジュさんは鼻で失笑し、つぅ…と瞳を動かして、僕の目を鋭く射抜いた。   「…つまり、()()()()()たちなのですよ、俺の両親というのはね。――九条ヲク家を背負う、俺の将来の心配こそしても、()()心配なんて、あの人らがするはずないのです。」   「……酷過ぎる、……」    会ったこともない――ましてや他人様(ひとさま)のご両親を悪くいうのは違うかもしれないが、…はっきりいって、ソンジュさんがこれまでにご両親から受けてきた行為は、明確に児童虐待にあたると、僕なんかでもわかる。  僕は軽蔑したような小声でそう言ってしまったが、するとソンジュさんはパッとその水色の目を強く光らせて、「おやおや」と何か、不敵な笑みを浮かべた。   「…すみません、また不幸自慢になってしまいましたね。…しかし、どうぞご心配なく。――形式上は俺の親ですが、俺はあの人らのことを、親だとは思っていない。」   「…………」    したたかなようである。  しかし、ソンジュさんは決して、したたかな人ではない。――いや、したたかな人というだけではない、というべきか…いまだに深く深く傷付いているからこそ、彼は手首を切ってしまうし、ああしてわんわん泣いてしまったのだ。――僕はそうわかっているからこそ、辛くて、何も言えない。   「…なぜって、俺はあの人たちに、長年虐待をされてきたのですから。――どうして親だと思えるでしょうか。…敵を、どうして普遍的な価値観でいうところの、味方だと思えるでしょうか? それこそ、あの人たちが俺を虐待してきたエピソードなんて、語ればキリがないほどありますよ。…」   「……、そう、ですね…、そうですよね……」    唯一無二の、愛されたかった両親に、自分は虐待をされてきた、と――それを言葉にできるようになるまで、一体ソンジュさんは、どれほど傷付き、苦しんできたのだろうか。…あの人たちは自分の敵だ、敵だった…そう言わなければならない彼は、どれだけいまもまだ、辛いだろうか。    “あの子”は、まだ泣いているのだ。  悲しいことだ。――もはや、悲しいことだ、というだけでは収まりきらないほどだ。…悲しいこと、なんて言葉じゃあまりにも、軽率だとさえ思うほどなのだ。  その言い尽くせない悲痛さに、僕は……――ほろ、と。   「……、…ごめんなさい…また、泣いてしまって……」    勝手に、嗚咽するでもなく、勝手にまた…――涙が、僕の片目から、こぼれ落ちていった。  するとソンジュさんは、優しい目をしてくれた。…穏やかな笑みを浮かべて、僕の涙に濡れた頬を、人差し指の側面で拭いつつ…彼はやや眉尻を下げて、僕の目をのぞき込んでくる。   「……いえ…、ユンファさんの綺麗な涙は、俺のことを癒やしてくれる…――救いだよ…。本当に美しいよ、ありがとう……」   「……いいえ…、…」    僕はまぶたを閉ざして、顔を横に振った。  するとソンジュさんは、「俺のために泣いてくれて、本当にありがとう」と――僕のことを抱き締めてくれた。         

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