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                    「………、…」    え……?  ケグリ氏が、モグスさんの、兄。  そんな…そこまでの繋がりが、――意外なことに目を見はった僕は、洗面台の白く四角いシンクを見下ろして、驚いている。   「…ただ、異父兄弟だそうです。…あまりベラベラ言うことでもありませんが…――ケグリは、彼らのお母様が()()()に合われたときに、できた子供だそうで」   「……、…」    じゃあ、つまり、――と…僕は複雑な胸の内に自然と深く、うつむいた。…妊娠するような()()()といわれたら、つまり…レイプだ。  レイプされて、できた子供が…――ケグリ氏。   「…我々条家は、清廉潔白でないことを嫌います…ですがもちろん、そのような場合に、被害者の方を責めるような真似はいたしません…――というか、もちろんそれ良しとしないのは、さすがに我々でも同じことです…」   「…………」    ソンジュさんは複雑そうに、抑えられた声で続ける。   「…しかしモグスさんたちのお母様は、そのことを誰よりもご自分が恥じ、打ち明ければ方々から責められるんじゃないか、十条家の名を自分が穢してしまうんじゃないか、と恐れ、その事実を隠してしまった…――まあ、時代背景もあったのでしょう。…今の時代の価値観でなら、ほとんどの人はそうは考えないでしょうが、およそ六十年前はまだ、そのような貞潔さの価値観があったようです。…」   「………、…」    ゾクリとなぜか、僕の脇腹のあたりに悪寒が走る。  どうして…いや、――僕がどうして、なんて思ったってしょうがないことだ。   「…そして、もちろん産科に行けば、その事実が明るみになるからと、病院にも行けず…――戦々恐々と過ごす日々の中では、吐き気もつわりなのか、後ろめたさ故のストレスなのかさえもわからず…、結局彼女は、妊娠には気が付けなかった……」   「…………」    死にたくなるほど、辛かったことだろう。  ケグリ氏のお母さん――話を聞いているだけで胸が痛くなる。…どうして性犯罪なんてものがあるのだろう。    どうして性欲に支配され、犯罪に手を染めてしまう人がいるのだろうか。――オメガとはいえども僕は、女性よりも比較的性欲の強い男だ。…とはいえ、犯罪を犯してまで性的に満たされたいとは考えたことがないから、正直その心理がよくわからない。    それはもしかしたら…僕には、恋愛を含め、性的なことよりも、熱中したいことがあったから…――なのかも、しれない。…またそれは、実は当たり前のようで、とても幸せなことだったのかもしれないのだ。  そして、僕はいまだきちんと“自分は性被害者だ”というように、明確な自覚が持てていない。――どうしてもどこか、他人事のように思えている。…しかもそれが、たとえソンジュさんに、「貴方は性加害を加えられていたんですよ」と、何度も明言されていてもなお…なのだ。  もしかしたら…僕のような性被害者も、この世の中にはいるのかもしれない。――難しい。    性とはなんだろうか。  正直、性というものは特に、この世の中でも取り扱い方を間違いやすいものだとは思う。   「…そうして、堕胎できる期間を過ぎたころ、大きくなったお腹にやっと気が付いた妊娠…――そのときに妊娠していた子供こそが、あのケグリだったそうです。…」   「…………」    どれほど辛かっただろう…――絶対に産みたくはない、自分を無理やり犯した男の子供を、どうしても産まなければならない…――あまりにも悲惨だ。  僕はまた泣きそうだ…――ケグリ氏の子なんか絶対に産みたくはない、――だが、いつかきっと僕は、その人の子供を産まざるをえなくなるのだろう。  それでいて、とても複雑だ。――()()()()()お母さんの気持ちが、わかってしまうなんて。   「……ですがもちろん、憂き目の中で宿った子供を、愛せるわけもないでしょう…?」   「…………」    それでも死を選ばずに、生きてケグリ氏を産んだ。  ケグリ氏のお母さんは、強い人だ。   「……それでケグリは…十条の、末端の家に養子に出された…――それが、そう…ノダガワ家です。」   「……、……」    じゃあ…ケグリ氏も、養子だったのか。  境遇が僕に似ている。――もしかしてケグリ氏は、()()()僕が欲しかったのか。   「…ちなみになのですが…ノダガワ家のご両親は、特段ケグリに対して、虐待するようなことはしなかったと聞いています。…むしろ、ご自分らの子供同然に愛して育てたのだとか……」   「……、…、…」    だからケグリ氏は、似ていると思っていた僕が、彼なりに自分より優れているというふうに思えると、僕を見下したくてたまらなくなっていた、のかもしれない。    だから僕をめちゃくちゃに壊して、支配したかった。  自分よりも幸せになろうとしている僕が許せない――それでいてケグリ氏は、同じ傷を持っているだろう僕に歪んだ愛情を向けて…――あわよくば、傷の舐め合いでもしたかったのだろうか。    僕はケグリ氏も辛かったんだな、と――一瞬同情し、  …いや、同情なんかするべきじゃない。――すぐにそう思い直したが。  どうしても、…どうしても僕は、この話を聞くと、ケグリ氏にも同情心が湧いてしまう。    僕は本当に、馬鹿なお人好しだ。    僕が養子に出された身だから、だろうか。  はじめに悪かったのは、ケグリ氏のお母さんを犯した男だ。だが――ケグリ氏は、その男と同じように僕を犯した。…だからやっぱり、そんな理由があるからといって、許せるというわけじゃない。  それでも…彼が辛かったということまで、僕に全否定することはできない――。    ソンジュさんはする…とまた、僕の後ろ髪にクシを通しつつ、淡々と――。   「……まあ、そもそも…ケグリが、強姦によってできた子供である…ということなど、人の心があれば誰も言いません……」   「………、…」    その口ぶりだと…――と、僕はゾクリとした。   「…しかしあの男は、今幸せな自分に満足するのではなく、その幸せの最中に、自分が養子であることを悲観したのですよ…――そうして十条家に押し掛け、実母を問い詰めて、自分の生い立ちを聞いてしまったそうでね……」   「……はぁ…」    その気持ちは、わからないでもない。  だから複雑だ。――僕はケグリ氏のことなど、本当に大嫌いだ。…でも、同じような傷を持ち、同じような気持ちがあって、正直理解ができてしまうところもある。    それがなんとも、自己嫌悪しそうにはなるのだが。    それでも…ケグリ氏のお母さんの気持ちも、察してしまう。――そうして押し掛けてきたケグリ氏に、彼女は恐怖を感じたんじゃないだろうか。  取り乱して、酷い言葉で真実を告げたかもしれない。       「それで腐り…あのドブガワに住む、醜いガマガエルとなったのですよ、あのケグリ()は…――。」     「…………」    そりゃあそうだろ、とも…自業自得だ、とも思う。  いや、僕はきっと一番、ケグリ氏に同情なんてしたら駄目な人だ。――だからといっても、僕はあの人を、きっと許すべきじゃない。  きっと僕は――だからなんだよ、と強くならなければならないのだ。       

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