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「…知らないほうがよい真実というのは、この世の中にはいくらでもありますよね。――屠殺されゆく家畜の涙…、子供の悪知恵…、今もどこかで死にゆく命と、親の性欲、その性欲で生まれた自分…、下心、優しい人の裏の顔、友の打算……」
「…………」
ソンジュさんは僕の髪をするりと最後、頭頂部からうなじのほうまで、クシを通した。
「…幸せとは案外、知らぬことなのかもしれませんね」
「…………」
そうかもしれない。――あえて見ないことが一つの、幸せでもあるように。
ソンジュさんはそう結論付け、さらに――。
「…おそらくあのガマガエルの最終目的は、ユンファさんと結婚して、貴方に、自分の子供を産ませることだったと思うのです…――ケグリはユンファさんに、あわよくばアルファの子供を産ませたかったのかもね。」
「……、そうですよ…、本人もそう言ってました……」
くだらないことだ。――アルファ属の子供、それをまるで自分の権威としようとするなんて…生まれてくる子供が可哀想である。
なんて…僕に言う権利はないか。僕は本当に馬鹿だ。
命令されたからといって、すんなり妊娠しなければ、妊娠しなければと、生まれてくる子供のことも考えず、自分勝手に、無責任にそう思っていた。
「…………」
でも…――僕、今は…――自分の、意思で。
きっと、自分の意思で…――。
「…アルファの血が濃い貴方と、十条の血が入っている自分の間になら…あるいはアルファ属の子供が生まれ、さらなる自分の権威を世に示せる…なんてね。それでユンファさんを、自分の魂に縛り付けようなどと…――紙切れ なんかよりももっと、強固な鎖…子供という存在で……」
「……、……」
僕に恋をしたのは、本当のことなのかもしれない。
十条家はもうヲクの名がついていない通り、“元・ヲク家”であり――今は完全に、ベータの家系になっているそうだ。
ただ、そうならば事実、たしかにケグリ氏には遠くともアルファの血が入っているということではあるか。――それでいわく、アルファ属の血が濃い僕と子供を作り、…アルファ属の子供を生ませよう、と。
しかしケグリ氏は、僕に恋をしておきながらも、条ヲク家への私怨から、五条ヲク家生まれの僕には自分より下であってほしい人なのだろう。――だから僕のことを、性奴隷にした。
だから僕が、自分に尽くすように仕向けたのだろう。
「…まあ、それでアルファが生まれてくるか、というと…かなり確率は低いでしょうけれど。――ケグリは条ヲク家という意味でも、単にアルファ属という意味でも、それらにコンプレックスがあるのでしょう。…それで運良くアルファの子が生まれたとしても、どうせまたあのケグリのオモチャにされるだけですよ。…」
「…………」
だけど…――オメガの僕が、もし仮に、これで――アルファの、ソンジュさんの子を、妊娠したら。
アルファの子が――九条ヲク家の子が――。
「…さて。では、俺もドライヤーを使いますので、ちょっとだけ待っていて。……」
「……はい…、……」
何気なく撫でた下腹部――子宮が、まだ少し重たい。
ソンジュさんの精液がたっぷり溜まっている僕の子宮が、じんじんと重たいのだ。…これだけ出されたら、一週間以内に来るオメガ排卵期のとき…下手したら、それまで彼に抱かれなくとも、あるいは…――本当に、僕。
「……、…、…」
本当に、僕…――妊娠。
どうしよう…そうしたら、――いや、十中八九、堕ろせといわれるか。
どうなんだろう……正直、駄目だ。――また頭がぽーっとしてきていて…――さっきよりもっと深刻だ、頭がぼうっとぼやけている。
そうして難しく、細部まで、明瞭に思考できない。
産みたい…――なんて、馬鹿なことを思ってしまった。
実際いまの僕は、どうなんだろう。――ソンジュさんの子供、僕は、産みたいんだろうか。……好きだからって、子供を産みたい…そう思ってもいいのか。…そんなこと、許されるのか。
ソンジュさんはともかく、じゃないだろうか。
たとえば彼のご両親は――九条ヲク家の、ご両親、ご親戚…――世間。
その人たちが僕の存在を、僕のお腹に宿るかもしれない命を、認めて、許してくださるか…と、そう考えると――許してくださるわけが、ないのだ。
「………、…」
多分もう僕は、恋はできない。
もう、ソンジュさん以外の人と恋はできない。
しない、とも思っている。…恋なんて、これで最後でいいと。――恋って、正直難しいのだ。
僕なんかには本当、難しいから…――。
しかし、だからこそある意味で、これは物凄いチャンスだとも思うのだ。――もちろん、まさかケグリ氏の言っていた意味での、アルファの子が孕めるという意味のチ ャ ン ス なんかじゃなくて――好きな人の子供を産んで、育てられるかもしれないという、…僕のエゴ。そういう意味でのチャンスだ。
むしろ…本当は僕、いま凄く失礼なことを思っている。
アルファの子じゃ…――九条ヲク家の子じゃ…――取り上げられてしまうかもしれない、なら…どうか、オメガの子が生まれてきてくれないだろうか、と。
性奴隷だった僕が、こんなチャンスに恵まれるのは、僕の人生の中で、そうそうあることじゃないだろう。
あのままいけば、僕はケグリ氏と結婚するところだった…――でも僕は、ソンジュさんと結婚できるかも、なんて…そんな幸せな夢を、見られた。貴方が僕に…僕なんかに、恋をしてくれた。とても大切にしてくれて、優しくして、愛してくれた。――奇跡だ、何もかも。
だけど、――だって、
「………、…」
だってきっと、…貴方は僕じゃなくても大丈夫だ、僕がいなくたってきっと、他にいくらでも愛してくれる人はいるだろう、――『……俺、…貴方がいなければ、生きてゆけない…』――さっきのあれだって別に、何も僕じゃなきゃ言えないセリフなんかじゃないし、なんなら、僕よりももっと気の利いたことを言える人はいくらでもいる、だけど、
だけど、でも僕は、
貴方が…――僕、貴方が…――ソンジュさんが、本当に好きだ。…そう思うと涙が出てくるほど、僕は彼のことが好きだ。――いや、…だからこそ。
貴方が好き…――貴方がいい…――貴方の子が、いい。
「……、…、…」
だからこそ、僕は身を引くべきだ。――ソンジュさんは、僕なんかと結婚したら…僕なんかを彼が孕ませたとご両親に知られたら、――彼、なんて言われるか……それでなくとも冷たいというご両親なんだから、――またソンジュさんが、僕のせいで傷付けられるかもしれない、
「………、…」
だから――僕は、何も。
…何も、言わずに…――逃げて、しまおう…かな。
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