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                      「…っはぁ…、…はぁ、はぁ…――っ!」        僕は今――全力で走っている。  肺が痛むほど鼓動が大きく、速くなり、…素足で踏んでいレンガの道は、僕の足の裏を汚し、一歩踏み出すごとに足の裏を何か、細かい針かなにかが、刺してくるようだ。――しかし、そんなことに構ってる余裕は、僕にない。        僕は本当に、逃げ出してしまった――。        まるで神様が、「今だ、逃げなさい」とでもいうようだった。――あの脱衣場から出てすぐ、廊下に出たタイミングで、…モグスさんが帰ってきたのだ。   『……よお〜ただいまぁ〜、あぁユンファさん、…っうお、!?』    僕は自分でも恐ろしくなるくらい、衝動的だった。  玄関が開いて、――僕はその玄関扉の隙間を目掛けて走って、――モグスさんを押し退けて、――後ろから『ユンファさん!?』と慌てているモグスさんの声が聞こえ、…ソンジュさんも何か怒鳴っていたような気はしたが、――とにかく一目散に僕は、エレベーターに、乗り込んだ。    そのとき、実は…()()のことが頭を過ぎった、でも、でも僕は、――ごめん、裏切って、戻ろうか、でも、…――怖い。    紺色のバスローブのまま、靴も何も履かずに裸足で、いや、僕、――なに考えてるんだろ、何が自分をこんなに突き動かしているんだろう、何してるんだよ、なんで逃げ…――本当に、怖い。怖い、怖い怖い怖い、――怖い!!!   「……はぁ、は、…――っ!」    愛されるのが怖い、怖くて怖くてたまらない、優しくされるのが、自分をひたむきに求められるのが怖い、幸せになるのが怖い、僕なんかがそんなの、――ありえないのに、祝福なんかされるはずない、認められるはずがないのに、幸せになんかなれるはずがないのに、――愛されるのが、本当に怖い。    それはなぜなのか――捨てられるのが怖いからだ。  裏切られるのが怖いから、愛に、幸せに、…ソンジュさんに、…たとえ、たとえ本当に、ソンジュさんが僕を愛してくれていても、彼は僕のことを裏切らなかったとしても、――たとえばソンジュさんのご両親が、僕たちのことを認めなかったら…――僕は結局、やっぱりごめんね、と捨てられるに違いない。    ソンジュさんの子だって、堕ろせといわれるに違いないし――実際彼だって、本当には子供なんか望んでいないからこそ、避妊薬を渡すと言ってきた。――僕のことを、いつでも捨てられるように。  だったら逃げたいよ、ソンジュさんから…怖い現実から、天国に行って、やっぱりお前は悪魔だからと地獄に堕とされるくらいなら…――せめて、ソンジュさんの子供だけは欲しい。    絶対認知なんか求めないから、あとでこの子は九条ヲク家の跡継ぎだなんて言ったり、養育費を求めるだとか、そんなこと絶対にしないから、…普通の子として、絶対に育てるから、――どんなに困っても、何があっても、僕は絶対に、絶対にもう、――ソンジュさんや、九条ヲク家に助けを求めたりしないし、絶対にもう、迷惑なんてかけないから。      お願い…――お願いします、神様。  貴方の子を、僕に生ませてください。      優しい貴方が愛してくださった宝物()を、淫魔の僕にください――。       「……は、……――ッ!?」    突然、――走っていた僕の膝がガクンッと抜けて、   「……っ? は、…、…ぁ……」    折れて…硬いレンガ道に膝を着き、僕は――地面に座り込んで手を着き、うなだれる。   「……はぁ……はぁ…――ど、どうして…どうしていきなり、……」    ぽた、ぽとぽと、――赤銅色のレンガに、僕の顎や鼻先から、汗がしたたり、小さな丸が色をじんわりと濃くする。…はぁ、はぁ…と切れた息、立ち止まってしまうと、ドッと全身が気だるくなってくる。  走り続けた脚が疲労に重たく痛み、足の裏や爪もまた、ジリジリと擦り傷を負ったかのような痛みを感じる。    大きく腕を振って走っていたせいで、バスローブがはだけ、肩でギリギリ留まっているほど――僕、…なにしてるんだろう……?   「…大丈夫ですかっ? ねえあなた、というか…こんな格好で、何かあったの…?」    頭上で誰か、少年っぽいような、ハスキーな女性の声が――その人はしゃがみ込み、うなだれた僕の顔を心配して覗き込んでくる。   「…誰かに襲われたの? 大丈夫? 一緒に警察行こうか?」   「……いいえ…大丈夫です、ごめんなさい…はぁ、…何でもありませんから、大丈夫です……」    しかし、僕は慌てて、頭を横に振る。  その女性は、「でも、そうは見えないけれど…」と、相変わらず僕のことを心配してくださっているが。   「…大丈夫です、ごめんなさい…、ごめんなさい、本当に…、……」    とにかく、此処じゃ通行人の邪魔になってしまうし、警察なんて本当に僕、用はない。――たしかにこんな、バスローブに素足で、何かから逃げるように全力疾走していた僕は、もしかするとレイプにあった人のように見えるのだろう。  だが、本当にそれは違う…――まさかレイプなんかされていないし、僕はむしろ…こうなるまで、まるで夢みたいに大切にされていた。    それを、僕が勝手に逃げ出したというだけのことだ。  笑ってしまう膝に力を込めて、「ありがとうございます、すみません…」と女性に断ってから、僕は立ち上がる。  膝が、脚がガクガクしてしまうが、とにかくどこか――少し隠れて休める…、路地裏。  路地裏、みたいなところなら…――と、腕をグッと掴まれ、誰かに引き寄せられる。         「…あぁ、この人俺の連れなんで、大丈夫ですよお姉さん。…どこ行ってたの? 探したよ……」       

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