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                「…………」    それに、そもそもとして。  僕はソンジュさんの元に戻りたいのか、というと――それもまた、判然とはしていないのだ。  逃げ出してきてしまった。――それこそソンジュさんにとっては、裏切り行為だといわれてもおかしくはない。     “「…もちろん…()()()()()()()()()()()()、だけれどね…――。」”     「………、…」    あんなことを言っていたソンジュさんだ。  次…もしまた会うことがあったとして、そのときに僕は、彼にどんな目にあわされるかわからない。――下手すれば僕は、ソンジュさんに殺されてしまうかもしれない。    彼のもとに、帰れる、はずがない…――。     「……、……」    ちなみに僕はその実、オメガ排卵期がきて初日では、そうそう思考能力が失われることはない。――まして、今はきても久しくない頃合いである。    ならば尚の事、今はまだ大丈夫だ。  さっきはきっと、久しぶりに走ったせいで頭がぼんやりとし、自覚するより必死に走っていたばかりに、膝が抜けてしまったのだろう――。    だが…――じゃあなぜ、ソンジュさんに後ろから抱き締められていた時点で、…頭がぼんやりとしていた…?     「…てかアンタ、名前なんつーの?」   「…………」    なんで…逃げてきてしまったんだろう…――?  なにが…そんなに…怖かった…――?   「ねえって、……チッ…また無視かよ、マジで感じ悪ぃわこの人……」   「………、…」    奇妙に思うほど、今の僕は意識も体も、夢の中にいるようだ。――現実から乖離(かいり)したような、本当に奇妙な感覚がする――ソンジュさんが見せてくださった、優しくて甘い夢…それがいつか冷えきり、覚めてしまうというのなら、と…僕は逃げ出したはずだった。  それなのに今は――悪夢というほどでもないが――奇妙で、不気味な夢を見ているような…宛もなく、どこに行くべきかもわからず、ただ不安を抱えながら夢の中を、彷徨っている……そのような、妙な感覚があるのだ。    僕は、きっと間違えてしまった。  僕は素直に、自分の気持ちを、ソンジュさんに打ち明けるべきであったのかもしれない。    逃げる、という選択は、一番(ずる)いことだ。  それはよくわかっている。…なんなら僕は、その卑怯な手を一番毛嫌いしているような人であったはずなのだ。    それは、僕がこれまでしたくはないと強く思ってきた、いわば嫌っていた誠実性のない選択である。…恩義を返さねば、筋を通さねばと、これでも誠実に生きてきたつもりだった。  ノダガワ家の性奴隷となったのも、僕がその、筋の通らない選択を嫌がったから…――そうであったはずだ。   「…………」    だというのに…――。  どうして僕は、よりにもよって――僕のことを助け、救い、優しくしてくださったソンジュさんから…誠実なソンジュさんたちからは、衝動的に逃げてきてしまったのか。    僕は、誰よりも彼らに対して、誠実性を返すべきであった。…つまり、正々堂々と自分の気持ちを伝え――たとえその結果どうなろうとも、たとえソンジュさんと別れることになったとしても、…それでも僕は、僕たちはきっと、ちゃんとした形で別れるべきだった。――自己嫌悪する。    たとえ失望され、ソンジュさんに、彼らに嫌われたとしても、…逃げるよりはよっぽどよかったはずだ。――素直にすべてを打ち明けることのほうがよっぽど、誠実な選択であったはずなのだ。  それに今になって、…馬鹿だ僕は――僕の、両親。   「……、…、…」    ケグリ氏への借金を肩代わりして、返済してくださったソンジュさんから、僕は何も考えずに逃げてきてしまった。  ということは――もちろん彼に恩義を返さずに、という意味でも本当に最悪だが――僕の両親の、生活費が。    当面はソンジュさんが、代わりに面倒を見てくださると、そういった話になっていた。  それなのに、僕は本当に最低だ…――どうしよう、やっぱりケグリ氏の借金分を返してくれと言われたら。…とても僕の身一つでは、身を粉にして働いても…分割でも…返済に何年かかるかわからない、それどころか分割に応じてもらえるかさえ…――消費者金融に借りるなんてのも、今現在無職の僕に貸してくれるところなんかないだろう。    ましてや当然のことだが、僕の身が彼の側になくして、僕の両親の金銭面を援助する義理など、ソンジュさんにはないのだ。  どうしよう…二人が、これで生活に困ってしまったら……ならば僕がすぐにでも働いて、とは思うが、そうそうすぐに働き口が見つかるのか、というと。   「……、…、…」    そうそう上手くゆくとも思えない。  住み込み、寮のある風俗店を見つけられたらいいんだが、…まずはその店をどうやって見つける?  僕は、ネットカフェを利用する小銭さえ持っていない、本当に無一文なのだ。……どうしよう…――。   「…ねえ、つか着いてきてるってことはさ、マジでイイんだよね? もう今更やっぱ嫌とかいわれても困るんだけど。ねえ、聞いてんの。――聞い、てん、のか。おい。…」   「…………」    それに…ああして髪を梳かしてもらったあと、ソンジュさんに着けてもらったまま――このタンザナイトのチョーカーを着けたままで、逃げてきてしまった。    これ、下手なダイヤモンドより高いものだったそうだ。  とても素敵なチョーカー…貴方がくださったこのチョーカー、それに思えば、ルビーなんて貴石が嵌ったニップルピアスもそうか――それなのに、申し訳ない。    せめてこれらだけは、置いてくるべきだった。    自業自得なんだから、もう今更帰りたいなんて思ってはいない。…追いかけてきてくれないなんて酷いだ、本当は追いかけてきてほしいだ、…そんなことも本当に思っていない。  思えるはずがないだろう、そんな身勝手なことは――知らない男に犯されるというのもまた一つ、自分勝手な僕への罰なのかもしれないと、それに関しても覚悟を決めている。  甘んじて犯されようと思っている。――そんな馬鹿で勝手な自分は、どうなろうともはや何も構わない。      でも…――ソンジュさんは…?  彼は今、僕に裏切られて、泣いてやしないだろうか。  もしまた会えるのなら、まずはきちんと謝りたい。    僕の両親は…?  僕のせいで生活に困ってしまうかもしれない。     「……チッ…ほんっと、マジで感じ悪……」   「……、…――。」    いや…まあ、ソンジュさんに関しては心配要らない、だろうか。  おそらくソンジュさんは、僕のことを追いかけてきているわけでも、探しているわけでもない。――案外あっさりと、諦められていることと思う。  杞憂だ。――また会えたあとのシュミレーションなんて、それこそ不要に違いない。  それよりは今後のことと、両親のことを考えないといけない。…やっぱり借金分を返せ、といわれた際にも、なんとかなるようにしなければならない。      これでソンジュさんとは、お別れとなるのだろう。  そのほうが僕も気楽だ。――これでよかったんだ。         

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