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「……んーとぉ…でもね。あのねえ、まりあ知ってるよ…? ――あなたは、嫌がってたよね?」
深く頭を下げた先で、レディさんが甘く優しい声でそう言った。――そして彼女は体を傾け、僕の顔を覗き込んでくる。
「…やめて、嫌だ、って…言ってたよね?」
「……、い、言いました、でも、…」
それに至るまでには、因果応報たる僕の行動があった。
だからこうなった。――悪いのは僕だ。
僕は腰を伸ばしつつも俯くが、しかしレディさんは僕の顔をやはり覗き込み、口角を上げながらもふる、と小さな顔を横に振る。
「んーん。たしかにぃ、あなたにも悪いとこはあったかも。…でもぉ…あなたは嫌だよー、やめてよーって言ったのにぃ、あの人、そんなあなたに酷いことをしたよね。――それに…こんな格好で逃げてるあなたのこと、いやらしいことするためにさらっちゃうなんて…嫌な人だね。」
ムッと薄桃色の艶がある唇を尖らせ、わかりやすく嫌な顔をしたレディさんはすぐ、にこっと優しく笑った。
「…あの人が悪いんだよ。それでいいの。」
「……、…、…ッ」
そう思ったらいけない。
自分を責めて咎める気持ちがある。――だというのに、レディさんに「あの人が悪いんだよ」と言っていただけた僕は、訳もわからず涙に顔を顰めた。
レディさんの、甘くて優しい声――彼女はスカートのポケットから取り出したハンカチを、僕の鼻梁にそっと宛てがう。
「…怖かったね」
そう一言言って彼女は腕を伸ばし――よしよし、と僕の頭頂部を撫でてくれる。
「…怖いから従っちゃうんだよ? ――自分の気持ちを殺すしかなくて、心も、体も従っちゃうの。…全部どうでもよくなっちゃって、これで済むなら、って、自分を諦めちゃうんだよね。まりあもわかるから、だいじょうぶだよ」
「……、…、…」
僕は、揺れてしまう自分の瞳を隠すように、固く目を瞑った。…悲しみに目を瞑って、立ち尽くす僕は――胸が張り裂けそうな思いがある。
レディさんも 、わかる。――その言葉に僕の胸の中、苦しいほどの何かが膨らんでゆく。
「…嫌なのに、嫌っていえないんだよね…? 気持ち悪いのに、体が従っちゃって…心でも、従わないとだめなんだって思って…。このまま従ってれば、全部諦めちゃえば…生きてける…――もういいやって、自分のこと傷付けちゃって…傷付けられないように、自分を傷付けちゃうんだよね?」
「……、…っ」
僕はきっとそうじゃない――僕は今回、逃げようと思えば、逃げられるタイミングはいくらでもあった。それに男で、オメガらしくない体の僕は、抵抗すればあるいは自分でも…――だが彼女は、そうじゃない。…間違いない。
レディさんは間違いなく、強制的に訪れた、悲 し い こ と を経験している。――この言葉は、彼女の過去の経験に基づいて出てきているものなのだと、辛くなるほどによくわかるのだ。
「…でも、もうだいじょうぶだよ。」
「……っ、……」
なんて言ったらいいのか、わからない。
レディさんの、柔らかな笑みを含むその優しい声に、僕は顔を歪めた。
は、…と、しゃくりあげるような、熱く湿った吐息が、乾いた唇から出ていった。
「…あなたは泣いていいんだよ。悲しんでいいの。…悔しくて、苦しいのはね…当たり前なんだよ? ――そんなあなたを責める人がいたら、まりあが許してあげないもん」
「……っ、…〜〜っ」
いよいよ決壊したものが僕の顔を歪ませて溢れ、閉ざしたまぶたとまぶたの間を濡らしてゆく。――するとレディさんは「よしよし」と可愛らしい声で言い、僕の体に抱き着いてきた。そして彼女は、僕の背中をなだめるようにさすりながら、
「……でもこれからはぁ、世界で一番かわいぃ自分のこと、自分で守ってあげよう? 自分のこと、諦めちゃだめなんだよ? それとぉ、助けてっていおうよ。あなたのこと、みーんな助けたいんだから。…だからまりあも、おさとうちゃんも、わんわんちゃんたちも、あなたのことを助けたんだよ。」
そしてレディさんは、彼女より背の高い僕のうなだれた顔を見上げ、にこっと笑った。
「あなたが悪いのは、それだけ。…ねっ」
「……っ、…、…っ」
僕は頷いていいのか、首を横に振るべきなのかもわからず、曖昧に顔を揺らしてしまった。
すると僕の目を、そのピンク色の瞳で見上げているレディさんは少し、声のトーンを下げた。
そして彼女は、泣きそうな顔をする。
「…ていうか、ごめんね…、もっと早く助けてあげなきゃって思ってたんだけど、怖くて……――おさとうちゃんが来るの、まりあちょっと待っちゃったの…。ごめんね、もっと早く助けてあげるべきだったのに……」
「……っ、…っ」
それにはなんとか顔を横に振った僕だ。
僕の推測が合っていたのなら――彼女はきっと過去、辛 い 被 害 にあってしまっている。
そうでなくとも怖いのは当然のことだが――そうならば尚の事、あの場面が怖いに決まっている。
しかし、そんな中でも彼女は、僕のことを助けようと現れてくださった。
どれほどの勇気を振り絞ってそうしてくださったのか。
これほど体の小さい女性が――思えばおさとうちゃんと呼ばれた女性も、「危ないから」とレディさんを叱るようだった。彼女はレディさんの過去を知っているのだろう。
僕は、自分が情けなくてたまらなかった。
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