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ソンジュさんの後ろ足も拭いてあげたあと、僕は自分の足をまた、ウェットティッシュで拭いていた。――素足で外に行ってしまった僕の足の裏は、真っ黒になっていた。
それこそちょっと申し訳ないのだが、ウェットティッシュを何枚も使わないと、なかなか拭ききれないほどである。――別に自己憐憫をしているわけじゃないが、当然あの固くてゴツゴツとしたアスファルトや、レンガ道なんかを強く踏んで走っていたためにかやはり、アルコールの入ったこのウェットティッシュは、正直ヒリヒリと少ししみる。…細かい傷にでもなってしまったのだろう。
「………、…」
膝も拭いておく。
本当に僕は馬鹿だ…――。
結局僕は、レディさんたちに遠慮の旨を言い出せないままだったことが、今も胸に引っかかっている。
そう…僕はあのあと、結局言えなかったのだ。――「話の運びによっては僕、今夜にもソンジュさんと別れると思います。だから申し訳ないのですが、コスメを作っていただくのはちょっと、少なくとも今ではないかと」
頭の中じゃこうしてセリフが形となるのに、いざそれを口にしようとすると、できない。…できなかった…――そもそもあのあと、「じゃあそろそろ、ありがとな」とモグスさんが切り出したことによって、そのタイミングを上手く見つけられなかったというのもあるのだが。
いや、だとしても僕は、きちんとそのことを言うべきだった。――それこそ明日がなくなれば、そのほうがレディさんたちにとってはご迷惑だったに違いない。
ソンジュさんの子が生みたかった――。
今からそんな話をするわけだ。すると、きっと僕は彼に幻滅されてしまう。それこそ別れを言い渡されてもおかしくはない。――性奴隷であった僕なんかがソンジュさんの子が欲しい、とはおこがましいことである。…正直、彼にとっては至って、はた迷惑な話だろう。
「………、…」
そうだ。たしかモグスさんは、薬箱を持ってきてくれるという話になっていたはずだ。…そのときにちゃんとこの件の話をして、モグスさんからレディさんたちへと伝えていただこう。
そもそも僕たちは、契 約 上 の 恋 人 関 係 なのだ。
普通の恋人関係でさえ危ういレベルだというのに、契約相手に「貴方の子供を産ませてください」なんてことを言われて、迷惑に思わないはずがないだろう。――それこそ、「そ れ は契約内容にありませんから」とさえ言われてしまうかもしれない。
しかし、もしかするとソンジュさんは、本当に、僕のことを愛して…――いや。
「……、…、…」
いや、と…否定がしたくてしたくて堪らなくなる。
どうしても今は、前向きに考えられない。…自分が馬鹿で情けなくて、本当に最低だと思ってしまうからだ。
失敗ばかりしている自分を、僕は今、殴り殺してやりたいくらいだからだ。…迷惑をかけないようにと逃げ出したつもりだったが、結果として、かなりいろいろな方にご迷惑をおかけしてしまった。――自分が駄目な奴だとは、これでもよくわかっていたつもりだった。
「……、…、…」
だが、自分が思っていたよりもずっと自分が駄目な奴だと、これでよくわかった…――。
「……ユンファさん」
「……、はい…」
ソンジュさんに名前を呼ばれた僕は、作業しながら返事をする。
「ア ニ マ ル セ ラ ピ ー って、ご存知ですか」
「…ええ…。……」
足を拭きながら考え事に集中していた僕へ、にわかにそう切り出したソンジュさんを、僕は肯定と共に一瞥してから、また足元へ目線を下ろす。――ところで、この山になってしまったゴミ(黒く染まったウェットティッシュ)はどうしたらいいんだろう、なんて思ってから。
「…………」
…アニマルセラピーか。
と、今度はそちらに思考が移る。
――アニマルセラピー。
簡単にいえば、動物が人間にもたらす癒やしを利用した、治療方法の一つだ。――一般的には犬や猫など、人間の生活に馴染み深い動物を役立てることが多いらしい(ただ、犬や猫以外の動物のこともあるそうだ)。…それは犬や猫が、いまやイエネコやイエイヌ、というような分類があるほど、人間と共に暮らすことに適しているとされるからだろうか。それほど身近な存在だから、かもしれない。
そして人間は、そういった可愛らしい動物を愛でることによって――ふわふわの体を撫でさせてもらったり、その可愛い姿を見せてもらうと――、精神的な癒やしを得られる。
すると、その癒やしの効果は体調面にも反映され、精神病の緩和はもちろん、のみならず肉体的な病気においても実は、病は気から…なんていうように、基礎治癒能力が高まる効果もあるそうだ。
またちなみに、猫のぐるぐるぐる…と鳴るあの喉の音、実は聞いているだけでも人間は、癒やされるらしい。
これは海外の臨床試験で実際にあったものだが――単に猫のぐるぐる音をうつ病患者に聞かせてみたところ、なんと被験者の抑うつ症状が緩和された、というのだ。
そういった感じで…まあ簡単にいえば、可愛い動物と触れ合うことにより、人間の傷を癒やす…――という治療方法が、アニマルセラピーというものである。
「…じゃあ、ちょっと撫でてくださいませんか」
「……、え…」
僕は立てた、自分の膝頭をウェットティッシュで拭き取りながらそう考えていたが――ソンジュさんにそう言われ、はたと顔を上げた。
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