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「――お前たち、とりあえずほら。薬」
…とにわかに、僕の背後からパタパタ、スリッパを軽く鳴らして歩いてきたモグスさんに振り返る僕は、「あ、…ありがとうございます」とお礼を言った。
彼は穏やかな笑みを浮かべて、何かを握っている――おそらくは傷薬を持っている――片手を前に突き出しながら、相変わらず玄関にいる僕らのほうへ、平然とした足取りで歩いてくるのだが。
「…おーユンファさん、なんならモグスおじさんが塗ってあげよっか〜? ははは、なーんt…」
「クソ変態スケベジジイが。セクハラだぞ…」
「…………」
怒ったような低い声を出すソンジュさん。
いやしかし…今は確実にモグスさん、「なーんてね☆」と言いかけていたようだし、どう考えても今のは真に受けるようなことじゃない。
あと、別に膝や足の裏に傷薬を塗るくらいのことじゃ、絶対セクハラにはならないだろうし(むしろ有り難い手当てじゃないか…)、そしてそもそも、僕の膝や足の裏を舐めるとかなんだとか言っていたソンジュさんがそれを言うのはおかしい、…ような気がしないでもない僕である。
なんなら、その行為をセクハラ認定しているソンジュさんにこそ、僕にそ う い う 下 心 がある上で傷薬を塗りたいんじゃ、と邪推してしまわないでもない(先ほどのペ ロ ペ ロ 事 件 の前例があるせいである)。
「…ガルルル…俺のユンファの綺麗なおみ足に触るつもりか、クソジジイ…?」
「…うぉぉ゛こわ…、電話のア レ が現実になっちまいそうだ……」
モグスさんは、割と本気の怯えトーンでそう言っているのだが――ちなみに多分、彼のいう電話のア レ はコ レ である。
“「…え…? 殺すとしたらひと噛みなんて…まさか、そんなことしないよ。…信用ないんだな、俺…、……ははっでも、“狼化”していたらわからないけどね。ほら、あのときは本能に抗えないだろ…? まあ仕方ないよ、そうなったら、そのときはそのときだと諦めてください。ふふふ…」”
「…………」
あのときは僕も、さすがに怖いなと思ったものだ。
しかもこのあとにソンジュさん、おそらくはモグスさんに「冗談だよな? やめてくれよぉ〜」なんて感じで言われたのに対し、「冗談かどうかなんてどうでもいいだろ?」と返している。――つまりはぐらして冗談だとはいわなかったのだから、そりゃあ本気で怯えもするだろう。
モグスさんは、僕越しにチラチラ、…グゥグゥ唸っているソンジュさんの様子を見つつ(僕は彼らに横顔を向けており、ソンジュさんのことは見ていないものの、いやにゴゴゴゴ…という地鳴りが聞こえてきそうなほど圧が凄い)。…モグスさん、僕へと手に持っている薬――チューブ、塗るタイプの傷薬――を手渡して、苦笑いを浮かべる。
「…いやーでもユンファさん、ほんと…こん…な怖い坊っちゃん、なぁかなか見られないんだぞぉ? ――ほら、せっかくだしちゃんと見ときな。」
「……、い、いや……」
せっかくって。むしろ怖い表情をしているソンジュさんは、見たくないんだが、僕は(今はオメガ排卵期のせいで警戒心もマシマシなので尚の事)。…というか、本当になかなか見られない珍しい表情であったとしても、人の怖い顔…もっといえば怖いものをわざわざ見たいと思う人なんか、いるだろうか?
「…ほらぁ。もったいないですぞ、ユンファさん」
「……い、いや、大丈夫ですほんと……」
もったいないって何。
いや、まあ世間には怖 い も の 見 た さ 、などという言葉はあるし、僕にその危 な い 好 奇 心 がないかといったらあるんだろうが、…しかし…それこそ幽霊だとか、なかなか見られないが怖いものをわざわざ「見たい見たい! だってなかなか見られないじゃん? せっかくだもんもったいない!」なんて…――肝試しさえ馬鹿らしいと思っている僕には、はっきりいって理解できないことだ。
そりゃあ、リリの幽霊が僕の側にいてくれているのは嬉しいんだが、それは愛する家族であり、可愛いポメラニアンのリリであるからこそ、であって――そもそも僕は、小学生の頃に怖い幽霊系の番組を見て眠れなくなってから、そういうのに滅法弱いため、怖いものは極力避けて生きてきたし。
僕は今、かなり複雑そうな顔をしているのだろうが――するとモグスさん、へらへらっと笑って。
「…はは、ほら見とけ見とけぇ? ――ア レ がアンタに惚れて、しょーもねえことに妬いてる男の顔なんだから。」
「……、……」
いや…別に見たくはないんだが。
嫉妬した人の顔の、何が面白いというのか。
なぜ人の嫉妬した顔が、希少だから見ておくべき顔、ということになるんだ? 正直、よくわからない理屈だ。
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