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「…ユンファさんの運命は、こうしてもう…既に変わってしまっているのです…――ただ、この状態で放置してそっとしておけば、砂糖はいずれ跡形もなくなり、見 掛 け だ け は 元に戻ったかのように思えますでしょうね。…しかしそれが…運命に抗うということ…見 な い ふ り を す る 、ということなのです…」
「…………」
今はまだ、ティーカップの底に崩れた角砂糖の粒が残っている。――だが、もうこの砂糖の全てを掬い出すことはできない。…今もなお、徐々に、徐々に…少しずつ、この砂糖の粒は今もなお…紅茶に溶け出しているのだ。
「…この角砂糖がもう角砂糖ではなくなったとしても、たとえ目には見えなくなったとしても…本質的には何も変わらない…――砂糖の入った紅茶は、たとえ目には見えなくとも、飲めば確かに甘いのです…。もう以前の自分に戻ることなど、できません。」
ソンジュさんはそこで、ティーカップのソーサーに添えられていたスプーンをカチャリと取った。――そしてそれを立て、僕に見せてくる。
「…まあ、もちろんこのままでは、砂糖は紅茶に溶け込みません。たとえ時間が経って粒がなくなったとしても、それでも砂糖は、まだ紅茶に溶け込んでいるわけではない…――それに、そんなに待っていたら、せっかくの紅茶が冷めて、不味 くなってしまいます……」
「…………」
銀色のティースプーン。
よく磨かれ、冴え冴えと光る銀のスプーン。…取っ手には飾り彫り――また、そのやや平たいつ ぼ の部分にも、ツタのような飾り彫りが成されている。
「…つまり、これだけでは駄目なんだ…――これでは、チャンスを完璧に掴めているわけではない…。このままじゃ甘い紅茶は手に入りません。これで飲んでも渋い紅茶と、カップの底に残ったザリザリの砂糖、というだけ……」
「…………」
部屋の白い光をキラ、キラと反射しながら、おもむろに下がってゆくそのスプーンの先――ティーカップの中の紅茶へそのまま沈むかと思いきや、…ソンジュさんは僕の右手に、それの柄をそっと握らせた。
「…俺は貴方に、この愛 の 象 徴 た る ス プ ー ン を差し上げたいのです。…これを使えば、ユンファさんの手は火傷などせず、また…手が汚れることもありません。…」
「…………」
そして彼は、僕が持ったスプーン――僕の手を包み込むようにして、そのティースプーンの先を、ぽちゃ…ほんのわずかな音を立てて、ティーカップの中に沈めた。
その銀色のスプーンのつ ぼ は、透き通った紅い液体の中でもなお、紅く染まりつつも鈍く銀に光っている。
「…そして甘い紅茶を飲みたいのなら…自らの手と労力、そして熱い紅茶には、人の知恵…すなわちスプーンが必要です。…こうして運命とチャンスを、ぐる、ぐる…幸福の食器 で掻き回し……」
僕の手を使い、ゆっくりと、くる…くる……掻き回される、紅茶――混ざり合う、砂糖と紅茶。
「…混ぜて一つに…そうしてやっと…――俺たちは、甘い紅茶を飲むことが叶うのですよ。」
「…………」
すう…と鷹揚に上がる、スプーン…――ポチャン…スプーンの先端から落ちていった紅いひと雫が、丸い波紋を広げる。…するりと取られたティースプーンは、カチン…静かにソーサーへと戻された。
「…運命とは、チャンスと出逢うことによって、やっと始まり、変化してゆく…――しかし、出逢うだけでは足りない…。自らも得ようと動き、知恵を使って、その運命とチャンスを綯 い交 ぜにし、よく溶かして…一つに、完成させ…――そうしたあとにやっと、ほっとする…甘く幸せなひと時を得られるものだ……」
「…………」
そしてソンジュさんはまた後ろから、僕の腹を抱き締めなおす。
「…しかし…もしユンファさんが、この運命に見ないふりをし、抗い、与えられたスプーンを使わず、紅茶を混ぜないでいたいのなら…あるいは折角のお砂糖入りの紅茶を、捨てるとおっしゃられるのならば…――貴方はやはり、渋い紅茶を飲むことになるのでしょう。…」
「…………」
柔らかく、それでいて、鋭利な脅 し だ。
丸い先端…――スプーンの先端は丸いが硬く、一見は誰も傷付けないようでいて、刺せば肉にめり込み、いずれは血が滲む…紛れもない金属だ。スプーンもまた、ナイフと同じ金属なのである。
スプーンだってきっと、使い方次第なのだ。
「…ですがきっと、貴方はそれを飲み干すあたりで、絶対に思い出す…――いえ、到底もう貴方は、一生忘れることなどできないのです。…もう既に入れてしまった、甘い角砂糖の存在をね…、…甘い角砂糖を知ってしまった人は、もう渋い紅茶など飲めません……」
「…………」
もう抗うな。
自分たちの運命に抗うな――それは無駄なことだ。
一見は先ほどと何も変わっていないというのに、目の前の紅い紅茶が、そう僕のことを睨 めつけてくる。
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