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僕を抱き締めているソンジュさんは、はぁぁぁ…っと、あまりにも重たく長いため息を吐いた。――そして彼、ボソボソと不満げにこう呟く。
「……クソ、こういうときに限ってユンファが素直に甘えてくれるだなんて、なんて俺は運が悪い男なんだろう、…グゥゥ゛……名残り惜しいにも程があるが…、……あともう少しだけ。」
「……っ?」
ぶつぶつ言っていたソンジュさんは、ぎゅうっと僕を押し潰さんばかりに強く抱き締めてくる。――苦しい、背骨やあばらがミシッとやや軋んでいるし、肺が圧迫されていては胸も苦しい。
「……、…ふふ……」
でも、幸せだ。
僕もぎゅうっと思いっきり、ソンジュさんを抱き締める。――もし僕にソンジュさんのようなわん…狼の尻尾がついていたら、わかりやすく今はパタパタと振っているに違いない。…それくらい嬉しくて幸せなのだ。
「…………」
「…………」
こうしてソンジュさんの胸の真ん中に片耳を押し付けていると、彼の速くなった鼓動が聞こえてくる――ドキドキ、ドキドキ…僕の心臓と同じテンポで早鐘を打つ彼の心臓に、僕はくすりと笑った。
「…さっき…また助けてくださって、本当にありがとう…。貴方が本当に大好きです、ソンジュさん……」
さっきのようなことがあると、僕はもっともっとソンジュさんに惚れてしまう。――あんなことがあっては、彼を好きにならないほうがよっぽど難しいことなのだ。
「……っ、…グゥ…――もう駄目だ、これ以上は…っ」
しかしソンジュさんは苦しげに唸るとさっと、僕の肩を掴んで引き剥がした。…あまりにも早急な動きに、僕は驚いて彼の顔を見上げる。――ソンジュさんは真剣な顔をして僕を見下ろしていた。
「俺も、大好きだ、ユンファさん、…た、ただ、だからこそなんですよ…――実は俺…その、俺もまた…わかりやすく言えば、抑 制 薬 を飲んでいるんです。」
「……、抑制薬…?」
僕は離されたまま――本当はまたぎゅうっと抱き着きたい衝動はあるのだが、子供ではないんだからとさすがに我慢し――ソンジュさんの顔を見上げ続けた。…僕と彼の視線が確かにかち合うなりソンジュさんは、はは…と気まずそうに笑って、チラリと横へ目を逸らす。
「…はい、まあいわゆるピルですよ。オメガの方の抑制薬とはいささか違いますが…ただ――その前にまず説明をしておくと、実は俺…簡単にいうと、精神病を患っています。…それははっきりいって、過去の虐待などのせいで……」
「…………」
目を合わせてはくれないらしいので、僕は顔を正面に戻し、ソンジュさんの広い胸板あたりをぼんやりと眺める。――彼のワイシャツのボタンは三つほど開いており、するともふもふの金色の毛が覗き見えている…セクシーだ。
するとなんとなく……なんとなく、駄目だ。なぜかムラムラしてくる。片頬を押し付けて、またぎゅうっと抱き着きたくもなってくる。
「…そして時折…何かをきっかけにして、過去のトラウマがフラッシュバックしてしまうときがあります。…虐待されていたときのことですとか…しかも皮肉なことに、俺は映像記憶をしてしまうタチですから…――するとそのフラッシュバックというのは、今 こ こ で そ れ を 経 験 し て い る か の よ う に、目の裏にその当時の記憶が、生々しく詳細に再生されている状態になってしまう……」
「……、…」
こんなに大切な話をされているというのに、そんなムラムラするとか抱き着きたいとか、呑気なことを思っている場合じゃない。僕はふる、と小さく顔を振って自分を戒める。
「するとパニックになってしまったり、一時的に、その当時の自分に戻ってしまうこともあるようで……そうしてフラッシュバックに苦しめられているときや、あるいは強いストレスや不安を感じると俺は、衝動的な発作が…破壊衝動とでもいうべきか…――そういっためちゃくちゃで乱暴な自分が、俺の中にはいるんです。そして、そ れ のことを俺は、悪 魔 と、いいました。」
「……なるほど…」
なんとなくだが、ソンジュさんのそれに関してはなんとなく、僕も察してはいたことだ。
ソンジュさんは時折、き み になる。――あれというのはつまり、彼がその当時(小さな頃)のことをフラッシュバックしている最中 に、今の自分とその当時の自分の境界線が曖昧になっているからこそ…ということなんだろう。
ある意味では、その記憶の仕方、思い出した方が鮮明であるばかりに、ソンジュさんはそのとき過去に、過去の自分に戻ってしまっている、というような。
「…普段からコントロールしようとはしています。だが、それがコントロールしきれないときもままあります。…駄目だ、これをしてはいけない、そう思うと同時に、それでも、どうしても抑えきれないときがある…――その時の俺は、曰く多重人格のように見えるそうですが、もちろんそういうわけではありません。」
「……、……」
僕はうん…うん…とじっくり頷き、ソンジュさんの話を真面目に聞いている。
「いや、ある意味で多重人格ならまだ、その人格や病気に責任転嫁することもできたかもしれませんが…つまり、あのときの俺もまた、すべて俺の意思で、確 か に 俺 が 、何かに乱暴を働いている。――だからこそ後々になってから、なんてことをしてしまったのだろうと後悔してしまうんです…、俺の中にはくっきりと二つに分かれた、白と黒があるというか……」
「……、…」
それは…わかっていたような気もする。
それに何より、僕もまたソンジュさんと少し似ているようなところがあるような気がするのだ。
僕は性奴隷だ。卑屈で、自分ほど下等な存在もない…だけど悲しい、叶うなら誰かに助けてほしい、僕が全部悪いんだ、僕が馬鹿で無知で愚かだから、いやもう諦めるしかない、僕は変態マゾ奴隷だ。ただのメス奴隷だ。本当はもうセックスなんてしたくない。どんどん自分が汚れてゆくような気がする。どんどん堕ちてゆく…怖い、ごめんなさい、怖いよ、助けて…誰か助けて、どうか僕を助けてください、神様…――。
そのように悲観しながらも自責思考、ただ静かに、自分が置かれている境遇を嘆きながらも、結局は粛々と受け入れている弱気な自分と――。
全てが終わったら絶対にぶっ殺してやる。…何メソメソ泣いてるんだよ、泣いてる場合じゃないだろ、絶対にいつか一矢報いてやるからな。どうでもいいんだよ、誰に助けられなくとも僕はやっていける。僕は悪くない。僕を罵り犯している奴らが悪いんだ。こいつらこそ罰が当たるべきだ。そもそもセックスを誰とでもすることの何が悪いんだ、別に妊娠なんかしてないし、する気もない、ただの仕事だ。僕自身も気持ち良くなれてるんだから別にいいだろ。まあ、僕をここまで堕としたアイツらを許すつもりなんかないけど、…絶対に許さない――。
というような…強気で他責思考、暴力的な衝動…僕もまた多重人格なんかではない。――どちらも確かに僕が思考し、どちらも確かに僕には記憶がある。
「…………」
妙なことかもしれないが――ソンジュさんの口からそのことを確かに聞けた僕は、親近感のようなものを覚えている。…ましてや僕は先ほどもパニックになっていた――それをまたソンジュさんがなだめて落ち着かせてくれた――が、ソンジュさんのパニックも僕はまた、何度か見てきている。…そして僕もまた、ソンジュさんのそのパニックを上手いことなだめて落ち着かせてあげられたらいいと、そのように思う。
恩返しというのばかりではなく――僕たちはもしかすると、少し似ているのかもしれない。…そう思うからだ。
同じ痛みではないが、僕にも少しはわかる痛みであるからだ。だから――できることなら、どんなソンジュさんにも僕は、寄り添っていきたいと願うようだ。
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