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                     母さんは僕の口元に何かついていたらしく、「口」とだけ言っては体をゆっくりと傾け、とろんとした目でテーブルの裏を覗き込むと、そこにケースごと固定されたティッシュを一枚、二枚と取り、それを僕に手渡してきながら。   「…でもね…そのあと、なんだかんだユウジロウさん、わたしと毎日過ごしてくれるようになったのよ。…時間があれば一緒にカフェ行ったりさぁ? なんだかんだ頻繁にデートに行くようになって。でわたしさ、――え、もしかしてこれ付き合ってる? 告白した上でこれはもしかして付き合えたの、なんてさ。いやわたしも若かったからね、そうなったらさぁ、あ、でも付き合えたのかなってね?」    眉を寄せてはいるが、母さんは当時のことを思い出して面はゆい思いがあるのか、ちょっと恥ずかしそうな目を伏せ気味にしていた。――ただ、それは恋の甘酸っぱいはにかみ、というような目ではなく、自らがしでかした失敗が恥ずかしい、というような鋭い目だった。  ちなみに口元をティッシュで拭いた僕は、それではじめて自分の口端に唐揚げの衣がついていたことに気が付いた。   「なるじゃん普通に…そうなるじゃん。…でも付き合ってるにしては手を繋いでもこない、ハグもない、好きとか愛してるとかの言葉もなく、キスもなんにもない。――でね? わたしから手を繋いだら、おどおどしながら“どうしたの?” なんて顔真っ赤にしてさぁあ…わたしもそのときは、かわい〜、奥手なのかなぁ〜なんて思って、でもやっぱり女としては曖昧だと不安じゃない? もしかして遊ばれてる? 駄目だこりゃ、一回ちゃんと聞いとかなきゃって思ってたんだけど……」    女としてはね、なんて話をされても男の僕には正直、共感しうるものもなかったが(恋愛経験もないからなお)、もはや僕がどうこうではなく話を続けてゆく母さんは、ここでハッと失笑し――ぐうっと缶酎ハイを煽って、っはぁー…っとオヤジっぽい息を吐き出してから、うんざりと笑った顔で僕を見てきた。   「…でもあるときさー…“()()()()()()()()()()()()ジスさん”――なんてニコニコしながらさ、ユウジロウさんに渡されたのよ。…()()()()()。」    この話のオチがこの時点で見えたため、僕もまた眉が寄り、しかし笑えて、苦笑いだった。――そして母さんも苦笑いで、またぼんやりと追憶の伏し目がちになり。   「まあわたしも悪かったんだよねー…、恥ずかしくって、雑貨屋さんのイヤリング見ながら好きって言っちゃったからさ…、別に欲しくもなんともないイヤリングだったし、なんならよく見てもなかったわそんな…別におねだりしたんじゃねえわ、アンタに好きって言ったんだわと思って、笑いそうになっちゃったけど…」    しかし僕はどうも、父さんならそういった勘違いをしかねない、という妙な納得感があったものだ。   「そやってイヤリングをプレゼントしてきたユウジロウさん、そのときなんて言ったと思うユンファ…?」    そして母さんは、笑いを堪えた顔、その震え声で――。             「――“僕と付き合ってください、ジスさん”……」          このオチには僕も耐え切れず、母さんと一緒になって大口を開け、大声で笑ったものだ。         

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