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――考えるのはもうやめようか。
結局ソンジュさんはシャワーを中断して来ただけであったようで、あのあと「心配ですし、一緒にシャワー浴びましょうか」などと言っていたが、そのあと「婚姻届の件も改めて話を擦り合わせないと…」などとも言っていたため、僕は丁重にお断りしておいた。
するとソンジュさんはクゥゥン…と切なく鳴きながら、「じゃあもう少しだけ、お好きなようにくつろいで待っていて…」なんてとぼとぼ、一人で浴室へと帰って行った(ちなみに彼、一応ちゃんと腰にタオルは巻いていた)、すると僕はまた一人、リビングに取り残される。
「…………」
いや、まあなんしてもよかった。
というのも、どうやらやっと本格的に、抑制薬が効いてきてくれたようなのだ。――先ほどソンジュさんに抱きしめられたときも変化はなかったし――つまり、僕にはもうムラムラした感覚はなく、また体が火照るような感覚も、うなじがビリビリと疼く感覚もない。…すっかり引いていったオメガ排卵期の症状に安堵しつつ、僕はマシュマロのとろけたホットココアを、一口飲んでみる。
「……ん、…ふふ……」
ココア自体はミルクよりカカオのほうが強く、やや渋味と苦味があるビターな味わいなのだが――その上でとろけた甘いマシュマロが、ふわふわの甘い、クリーミーな泡のようになっているから総じて結果、ちょうどいい甘さになっている。
ほっとする。少し贅沢な気分になれる、濃厚な甘さだ。
心までマシュマロのようにやわくなりそうなほど、とても美味しい。
ただ、僕はいま――もうぐるぐる考えていても仕方がない、と、考え事を終えてしまったばかりなのである。
「……、…」
すると今度は、手持ち無沙汰に襲われる僕だ。
好きなように、という自由を与えられたとしても、まるで水を得た魚のようにはいかない。――例えば僕が魚だとするのなら、この家は水ではないのだ。…あくまでも此処は僕にとって勝手のわからない、よそ様の家だからである。
「…………」
そもそも僕は、すっかり聞きそびれてしまったのだ。
僕の荷物…――モグスさんがお部屋に運んでおきますから、と言っていた僕のボストンバッグは、今いったいどこにあるのだろうか。
僕の部屋がある…ならばあるいは、その部屋に持っていってくださったんだろうか?
しかしそもそも、僕はその自分の部屋がどこにあるのかも知らないのである。
「……、…」
反省している。
思えば、聞いておくべきことはたくさんあった――と。
たとえば――僕の荷物はどこに?
勝手がわからないので、この家での過ごし方がまだわかっていないのですが、そもそも、どこに何があるのかさえわからないのですが。
暇つぶしをしたくとも、スマホもない。スマホはどこにありますか。
僕はどこで寝たらいいですか。僕の部屋があるならば、僕の部屋で寝たほうがいいですか? そもそも、僕の部屋はどこですか?
この家の、どこまでの部屋に入っても? 僕が入ってはいけない部屋はありますか?
そういった…それでなくともこの慣れない豪邸で、これから暫定一週間過ごすうちに、自ずとぶつかってしまうであろう質問類…――僕はきちんとそれらを、事前に聞いておくべきだった。
「……、……」
すると、不安な自分がここにいる。
今は椅子に座っているのだが、ソンジュさんが側にいないとまるで、僕は呆然と立ち尽くしているかのような気分に襲われるのだ。――ガランとしたこのリビング…らしい部屋は、人がひしめき合い踊ってもまだ余裕がありそうなほど、ダンスホールめいた広さがある。
遠くからは控えめな音量でいまだ、ゆったりとしたピアノのクラシックミュージックが聞こえてはくるが、それがなおまた、寂寞 の念を強めてゆくようなのだ。
そんな広い場所にぽつんと一人取り残され、ましてや人様の家だと思えば尚の事――不安だ。
僕は、あまりにも広くて、むしろ居心地が悪いようなこの部屋――リビング――を、何ともなしに見渡してみる。
いや、さっきもうすっかり観察し終えてしまったこの家の中に、そう真新しい発見があるわけでもない。…見上げた天井はいやに高い、黒いシャンデリアを見上げるにも顔を真上へ向け、ため息までもれる…二階まである、マンションなのに…――。
しかし、探検なんて勝手にどこかの部屋に入るわけにもいかない。荷物がなければスマホもない、このお上品な部屋にゲームなんかありそうもない、PCも見当たらなければ本もない、……本。
「……、…」
本か――。
僕ははたと前のほうへ顔を向けた。――あのバカでかいテレビを囲うテレビボードの左、本棚となっている一角、その上から下までぎっちりと詰まった本の背表紙らしき群集へ、僕は顔を向けたのだ。
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