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「…………」
好きにしてもよい、というなら…ちょっと本をお借りして読んでいても、構わないだろうか。
そもそも、あのテレビボードの向かって右側は一面、焦げ茶色の細長い柱のようになっている。…つまり左側の、本棚が見えているほうははじめから扉が開いていたということであり、それはあたかも「どうぞ読んでください」というようではないか(いや、都合のいい解釈だろうが)。
よし、ならば暇つぶしに何かいいものがないか、見に行こう。――そう思い立ち、僕は椅子から立ち上がって(なぜか不安で、片手にマグカップも持ってきてしまったが)、そこまで歩いてゆく。
「……、……っ」
歩いて…ゆこうとした。
が…――あんまりこの部屋が広いので、らちが開かないと結局かなり早足で、そちらのほうへと向かう。…とはいっても小走りはできない。手に持ってきてしまったマグカップから、ココアが溢れてしまいそうだからだ。失敗した、ココアは置いてくればよかった、しかしここまできて引き返すのも何か面倒くさい。
いや、慣れない。――自分の実家…それも自分の部屋の本棚へなら、ほんの数歩で真ん前まで辿り着けるというのに、…競歩レベルの足取りで本棚まで行かなければならない家があるとは、正直不便な気さえしてくる。
普遍的に家の広さは権力の象徴だとかいうが、ただ無意味に広いだけではむしろ、庶民の狭い家のほうが便利なものなんじゃないだろうか。――そんな庶民たらしい僕は、どこか苛立ちに似た焦りで、足の動きを速めた。
×××
「…………」
僕はそうして早足ながらやっと、目的の本棚があるテレビボード――テレビ自体も縦だけで160センチ以上ありそうなのだが、更にそのバカでかいテレビを囲っている焦げ茶色の、二メートルはありそうなテレビボード――の、左端にたどり着いた。
そして僕は、片手にマグカップを持ってそこに立ち、ズラリと羅列した本の背表紙を、上から順に眺めはじめる。
紺に金の英語、真紅に金の英語、白に黒の英語、黒に金の英語…――しかし残念ながら、この本棚にあるのはほとんど、洋書ばかりであった。
僕なんかじゃまさか、英語の本は読めない。
そりゃあ多少なら英語も読めるが、しかし僕にはせいぜい、学校や塾なんかで多少英語を習っていた程度の英語力しかないのだ。…簡単にいえば僕は、ヤマト語の本しか読めないということである。――まあ、ある意味この洋書がずらりと満ち満ちた本棚の印象としては、どことなくソ ン ジ ュ さ ん ら し い 、というような気はするが(さすがである)。
「…………」
それにしてもがっかりだ。
そのやけにおしゃれな洋書の革背表紙を上から下まで、特に文字を読解するでもなく顔を動かして追っていた僕は、結局そうしても期待を裏切られ、がっかりと落胆しながら俯いた。
「……、……」
本がこれだけあっても、僕には読めないんじゃ正直、何の意味も……――あ…?
「……、…ぉ……?」
俯いた拍子に――最下段にお 宝 を見つけた僕、迷わずその場にしゃがみこむ。
「……おぉ…、はは……」
あ…これも、これもだ。
それも、あ…これ全部、――全部そ う じゃないか。
「――全部pine 先生の作品だ……」
嬉しくなった僕はすぐさま、膝を床に着いた。
「……、……」
しかし、やっぱりソンジュさんって、pine先生なんだろうか…って――あ…?
「……?」
あれ、『夢見の恋人』がない。
いや厳密に言うと、ここには――『夢見の恋人』だ け がないのだ。…そのほかのpine先生の本はすべて揃っているというのに、『夢見の恋人』だけがどこにも見当たらない。
「……、……」
当然それがなぜなのかなど、訝 しがっても僕にはわかりようもないことだが。…しかし、pine先生の作品がすべて揃っている中で、『夢 見 の 恋 人 』だ け が な い というのは、何か妙なことである。
何より、どうしても寂しい気分になってしまう。
ソンジュさんがpine先生だろうとそうじゃなかろうと、pine先生の作品の中で、僕の大好きな『夢見の恋人』だけをソンジュさんが除外しているということは、まず間違いないからだ。
残念な気分でもある…――あるならそれを読み返そうかと思ったのだが――僕はそれくらい、あの『夢見の恋人』が一番というほど大好きな作品なのだ。
「……、…ふふ……」
とはいえ――。
実のところをいうと――僕ははじめ、『夢見の恋人』のことを結構バカにしていたのだ。
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