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「…ふふ…さあ、寝る前に本でも読もうかな。」
「…………」
そう突然僕の隣で、ソンジュさんはおもむろに、シルクのローブのポケットから――何か、一冊の本を取り出した。…そして、ソンジュさんはその本をさっと開いて、すぐその文庫本の縦の文字列へと目を落とす。
「…………」
「……、…」
狼のしゅっとした綺麗な横顔。
どことなく気だるげにも見える伏し目――極短い金色の毛で覆われたまぶたは、ソンジュさんが人間の姿であったときと同様に、少しだけ目尻が垂れている。…長くてセクシーなまつ毛の色は、そのまま黒だ。
真剣な顔をして本を読んでいる、その横顔――やっぱり格好良いな。…狼の顔でもどこか上品で、かなり様になる。
「…………」
「…………」
ソンジュさんが仕事――執筆――をしているときも、こういった真剣な顔をしているのだろうか。…凄く格好良いな…邪魔はしないように、だから側で静かに、ずっと見ていたいくらいだ。
ペラリと一ページまくった指――今はふわふわの金色の毛で覆われた大きな手の甲、黒く鋭利になった爪、手のひらの黒い肉球。
ただ本を読み始めて割とすぐ――ここでソンジュさんは、その今は丸目がちな水色の瞳をぐうっと上へ、ふっと神妙な顔をして僕へ振り返る。
「僕を放っておかないで、折角二人で過ごしているのに、本を読むだなんて…――ユンファさん、そうは思われないのですか。」
「…え…? いいえ…?」
なぜそう思うことがあるのだろう。…僕はむしろ、ソンジュさんのその真剣な横顔を隣で見ていられるだけでも、いま十分な幸せを感じていたのだが。
それに、別に本を読まれたいなら読めばいいだけのことで、好きなように、好きなときに読めばいい。――あ、いや、僕がジロジロソンジュさんの横顔や手元を見ていたから、集中できなかったのだろうか。
「すみません…僕がジロジロ見ていたからですか。なら、もう見ないように…」
「そうではなくてね。…二人きりの時間に本…つまり、一緒にいるのに一人の世界に籠もられて寂しいだとか、二人でいる意味がない、だとかは……」
なぜか呆れた様子のソンジュさんは、僕のことを叱るようですらある。
「…いいえ、別に。そういったことはありませんでした」
寂しいどころかほのぼの和んでいたくらいだが。
まして、むしろ本を読みたいという欲求は、どのようなタイミングにおいても、衝動的に訪れるものであるとは経験則でよく知っているし――その気持ちのときに読むからこそ集中することもできる――そして、集中して本を読んでいるときに邪魔をされたくないというのも、僕にはよくわかることだ。
「どうぞお気になさらず。僕は適当に考え事でもしながら、暇を潰しま…」
「いえもう結構。むしろ俺が寂しくて死んでしまうよ……」
「……?」
どういうことだ…かは僕にはわからないが、本当に寂しそうなソンジュさんは、早口でそう言いながらページに本付属のリボンを挟んでぱたん、それ閉ざした。――そして彼、今し方まで読んでいたその本の表紙を、何気なく僕へ見せてくる。
「……あ…、…」
そのパステルカラーの表紙、その本は――『夢見の恋人』だった。
ソンジュさんはこの『夢見の恋人』だけ、あのテレビボードの本棚に入れていなかった。――他のpine 先生の本はすべて揃っていたのにだ。
なるほど、それは彼の手元にあったからか。
「…ユンファさん…わざわざこの“夢見の恋人”を持ってくるだなんて――本当にpineの大ファンなんですね。」
「…あ、それ僕のですか」
いや、そうではなかったようである。…これはソンジュさんのものではなく、どうやら今彼が読んでいたこの『夢見の恋人』は、僕のものであったようだ。
ただ、厳密にいえばこの『夢見の恋人』は僕のものではない。確かに僕の家から持ってきたものだが、本来の持ち主は僕の母さんである。――というのも僕は、ケグリ氏の元へ行くとき、なぜかとっさにボストンバッグへこれを詰め込んで、持ってきてしまったのだ。…まあ、母さんから借りパクしてきてしまった、とでもいうべきか。
そしてソンジュさんは、何かくすりと目を細めて笑うなり、その『夢見の恋人』の表紙を愛しげに見下ろす。
「…ええ。見ると読みたくなりましてね…だからちょっとお借りして、先ほども風呂上がりに、つい読みこんでしまったんだ」
「……そうですか。やっぱり面白いですよね」
だから遅かったのか。
するとソンジュさんは、「そうですね…」と『夢見の恋人』の裏表を、何となし見ながら。
「しかし、まだ文学としては未熟といえますか…、まあ処女作じゃ仕方がないね……」
「……、……」
僕は思わずムッとしてしまった。
そりゃあ確かに、『夢見の恋人』はpine先生の処女作だ。――当時中学二年生だった彼 の人がどんどん成長し、みるみる技術をものにしていることは事実である。…確かに近頃の先生の作品に比べたらそうなのかもわからないが、ましてや同業者である作家先生のソンジュさんから見たならば、そりゃあ拙 いところがあるように見えるのかもしれないが。
「…っでも、よく出来てる。素敵です。僕は一番好きですから。pine先生の作品の中で、というか、正直世界で一番好きな作品ですから。」
「…ふふ……」
何か含みのある笑みをぼんやりとこぼし、ソンジュさんは『夢見の恋人』の表紙を眺めている。
「…どこまで読みましたか」
「……あぁ、どうだったかなぁ…」
なかば馬鹿にしたような薄ら笑い――皮肉な上がり具合の口角、その笑いを向けられているのは――僕の愛してやまない作品、『夢見の恋人』である。
僕は頭にカッと血が上るような思いがした。
「……っソンジュさん、いいですか? “夢見の恋人”の魅力はですね、まず、――」
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