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                     ソンジュさんは僕の片頬をめちゃくちゃに舐めてきた。  すると僕は、それが擽ったいやら可笑しいやらで泣き止み、笑えた。――そうして僕たちは、笑顔を見合わせる。  僕のことを組み敷いたままのソンジュさんは、しかし、僕の目を見るなりとろりとした、懐かしげな、愛おしげな目をしてくる。――その目はあたたかいながら、どこか今にも泣き出しそうな目である。   「…貴方は俺のことを、“叶わぬ人”だといいましたね…。ですが、俺にしてみればよほど貴方のほうが、叶わぬ夢でしたよ…――追い掛けても追い掛けても、俺の手は届かない…。今までの俺は、ただ綺麗だなぁと、叶うならば触れたいなと、どうか俺に微笑みかけてほしいなと…うっとりと貴方をそうして、眺めていることしかできませんでした……」   「…………」    ぼやけていた少年――十三歳の少年が、じわじわと確かに見えてくる。…ホワイトブロンドに、象牙色の肌…まだ幼じみた頬を持ち、透き通る大きな瞳は淡い水色――窓辺で外を眺めている高校生の僕を、彼は図書室の入り口でただぼんやり、恋い焦がれて見つめている。  僕はそっと…その光景を味わうように、目を瞑った。   「…貴方はまるで、恋い焦がれても決して手に入らぬ、月のような人だった。…俺は貴方をダンスに誘った…。でも、貴方は俺を子供だと思って、僕と君じゃ背もデコボコだ、そもそも僕はダンスなんか踊れない、君は他の子と踊りなと断り、躱したんです…――俺はずっと、ユンファさん…、貴方とダンスが踊りたかった……」   「……ふふ、…?」    ソンジュさんは何か、拗ねたふりをしたような調子でそう言うので、僕は思わず笑った。  だが…ぴた、と僕の片頬に落ちてきた、小さな丸い熱――ゆっくりとまぶたを開ければそれと同時、つーっと僕の耳のほうへと流れてゆく…ソンジュさんの、涙。   「だから俺は、この家に来てすぐ、…貴方の手を取り、踊った、…ユンファさん…っ俺はあのとき、一つ夢を叶えたんだ、…」    泣きながら目を細めて、どこか少年のように笑うソンジュさんに――今は“狼化”しているというのに――十三歳の少年が、重なる。   「それにね、…行ってしまう貴方を、俺は引き留めた。そのときに触れた貴方の手の感触を、俺は今でも鮮明に覚えています、…貴方の手は、今もなお何も変わっていなかった…――本当に、()()()()だった……」   「……だから()は、僕の手を()()、のか…?」    あまりにも突然――『KAWA's』で、「貴方の手を()()()ください」といったソンジュさんを思い出し、僕はどこか夢を見ているような気分で聞いた。  ソンジュさんは涙を堪えたように詰まり、ふふっと笑うと、「ああ、そうだよ」と笑って頷いた。またぴちゃり、僕の頬に熱い涙が落ちてくる。   「貴方は俺に教えてくれた…、アルファだとかベータだとか、オメガだとか…――そんなものが無くても、俺が俺として存在してもいいということを、…九条ヲク家も何もなく、貴方は俺を一人の人として、ただの十三歳の少年として、貴方は俺のことを理解し、()()()()扱ってくれた……っ貴方だけだったんだ、そんな人は、…」   「……、…」    じゃあ此処に来る前、僕に属性のことを聞いたのは…――ソンジュさんは「確かめておきたいことがある」といって、僕に「(オメガなど)属性についてどう思うか」を聞いてきた。――それは、つまり。   「俺は、属性のことを貴方に聞いたでしょう、…それはね…貴方がオメガとして虐げられていてもなお、()()()()()()()()()()()()()()()を、俺はどうしても確かめておきたかったんだ…――もちろん貴方は何も変わっていなかった、あのときも貴方の中に()()()()よ、…あのときとまるで何も変わっていない、気高き銀狼(ぎんろう)を……()()()()()()()()()()()()()()は……」   「…………」    ――「…やっと、見つけた…」  点と点が線になって、みるみる繋がってゆく。――夢幻だと思っていた漠然としたものが、今に形となってゆくようだ。   「貴方は今もそうだ…。俺に恋をしていようが、俺の側にいたいと夢を見ていようが…ユンファさんはあのときから、簡単には俺になびかない。決して流されない…、俺の権威に媚びて、(おもね)るようなことは、憎らしくなるほど一切しない…――やはり貴方は誰よりも美しく、気高き銀狼だ……」    ソンジュさんは泣きながら僕のことを掻き抱き、そして僕の耳元でこう、囁いてくる。   「…だからこそ()()()()()()()()()()でした。…どうしてもこの夢だけは、叶えたいと、俺は、()()()()()()()()から…一目見て貴方に恋をしてから、ずっと、ずっとそう願ってきました……」 「…カナ、エ…――。」    僕は、ソンジュさんの広く大きな背中に両手を回して、彼を抱き締めた。  するとソンジュさんは、泣きながら――。           「…だから、俺は貴方を手に入れるためならば、例えどんな汚い手でも使うよ…――なぜならユンファさんこそが、俺の人生における叶えたい夢であるからだ…。…貴方こそが、俺があの日からずっと見続けてきた、どうしても叶えたい俺の夢なんだ、ユンファ……」       「…………」    夢見がちに見ていた夢が形を成して――叶えようと――今、目を覚ます。             つづく

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