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【15】目覚まし草は夢を見る
――目覚まし草 は夢を見る。
ベッドの上で微笑みながら安らかに眠っていた一人の青年が、突如として跳ね起きた。それは深夜三時を少し過ぎたころのことである。
「またあの夢だ」
暗闇の中でそうこわごわ呟いた彼は、薄金の髪に青い目を持つ、美貌の青年であった。
だが、今その青年の目は恐怖したように見開かれている。彼はなめらかで狭い象牙の額を翳らせたが、その額に落ちたいくらかの前髪をおもむろに後ろへと撫で付けた。
彼が今も何気なくしてしまったその癖は、例えば猫が、気分を落ち着けようと自分の体を舐めるようなものである。
彼が尋常ではない夢を見たことは明らかだ。
しかしそれでも落ち着きを取り戻せなかった青年は、あたかも恐ろしく悪い夢を見たかのような鈍痛の動悸に、さっと自分の左胸を右手で押さえた。闇に溶け込む黒いパジャマの胸に、彼の象牙色の大きな手が浮かび上がる。その手はガタガタと震え、指先が冷え切っていた。
いや、青年はそれでも落ち着かない。自分の手のひらに伝わってくるドクドクと激しい胸の鼓動にまで威圧感を覚え、彼は深夜三時の、重苦しい暗い沈黙の中でため息を一つついた。そして彼は、そっと悲痛げに精悍な眉を寄せると、涙の滲む目を瞑った。
『またあの夢を見てしまった。な ん て 幸 せ な 夢 だ っ た ろ う ? 』
九条 ・玉 ・松樹 という二十四歳の青年は、生まれたときに一つ、人よりも特 異 な 点 を持って生まれてきてしまった。
彼という青年は、世間の目ではどの点から見ても、神のように完璧な青年である。
ソンジュは大層美しい容姿をもっている。
モデルとして活動しても遜色ないほど脚の長いスタイル抜群の長身、人より小さな顔、陽光で紡いだ糸のように輝く薄金の柔らかい髪、狭くなめらかな象牙の額、濃茶の精悍な形の眉、高く形の整った鼻――彼の横顔にもまた、狼のように研ぎ澄まされた美しさがある――、アクアマリンをよく磨いて嵌 め込んだかのような水色の瞳、切れ長のまぶたは目尻がやや甘く垂れており愛らしく、若々しい唇はぷっくりと膨らんで、血色もすこぶる良い。
ソンジュはどの角度から見ても、誰が見ても惚れ惚れとするような、神のように凄まじく美しい青年である。
またソンジュが生まれた家は、伝統ある血統の家柄だ。
彼が生まれたのは九条ヲク家という、この大和日本国 でも随一のアルファ家系である。それも彼は生まれたときから、既にその家の次期当主と定められていた。
ソンジュは生まれたときからエリートコース以外あり得ないという、とても恵まれている家庭に生まれたわけである。
そしてソンジュは幸いなことに、人格にも恵まれた。
鋭い判断力を以 ってして人を導きながら、何物にも動じない肝の据わった男らしさの反面、ソンジュは優しく丹精で繊細なロマンチストでもあり、かつどこか大人びた神聖な落ち着きもある。
そうした彼のきめ細やかな気遣いの精神は、人の――殊 に彼に惚れている女の――心の琴線 に易 く触れ、誰もがソンジュの優しさに、その柔和な眼差しに、深い水色の瞳に、並大抵ではない丁重な特別視を感じるのである。
端的にいえば彼は人好きする性格といえる。そのこともまた、彼へと多くの人の心をいたずらに惹き付けていた。
それから、ソンジュはその実、ライフワークと兼ねた仕事においても若くして大成功を収めている。
彼はひょんなことから、自らの筆が立つ才能を人に見出されて、まだ中学生の頃に小説家となった。この業界では一生日の目を見ることのない作家志望も多い。その競争が過酷な業界の中で、ソンジュは幸福にも、たった十四歳のときにその才能を見出されたのである。
彼が若き天才作家pine として活動を始めてからというもの、この青年が次々世に送り出す作品は、世間に高く評価され続けていた。ソンジュはその道では、既に板に付いた作家として有名であり、『ホルス の目を持つ鬼才作家』とまで世に称されている。
要するに仕事においても、彼は若き天才として大成功を収めているのである。
しかし、ソンジュはいつもこう考えていた。『こ れ は あ く ま で も 客 観 的 な 目 線 で の 評 価 だ。俺は完璧な神ではない。彼らの褒め言葉は、一体どこまでが本当なのだろう? どこまでが天才や九条ヲク家やアルファや、そうした優 秀 と い う バ イ ア ス のかかっていない褒め言葉なのだろうか。俺 の 目 を 見 な が ら なんら気後れもなくこれらを言える人は、この世の中に一体どれくらいいるものだろうか?』
才色兼備の若き天才作家――ソンジュはしばしば世間で、神のように完璧な青年であると評価された。
しかし彼自身と世間との評価には、明らかな撞着 があった。ソンジュは自分をそのように完璧だとはとても思えないでいたのである。
成功者が矜持 を持つことは容易 いようで、それを堅固なものとするのは至って難しいことである。刹那的な矜持は人を破滅させるものだ。それを人は驕りと呼ぶ。
ソンジュもまたふとしたときに自分の人生を立ち返ると、自分自身への矜持を持てるときももちろんあったが、むしろ彼は、いっそ自分の恵まれた環境をすべて捨ててしまいたいと思うときのほうが多かった。
これを驕り高ぶりだと非難する者は多いだろうが、誰もが成功者と見做 すだろうソンジュという青年はその実、自分の人生を大概不幸なものだとして悲観しがちだったのである。ソンジュが堅固な矜持を得ようとすると、彼の背中におぶさった過去が襲い掛かってくるせいで。
するとソンジュは決まって底しれぬ自らの不幸、言い換えれば成功や、地位や金や名誉では埋めようもない、果てしない孤独を感じたのだ。
過去は事実として人の背中におぶさってくる。勝手におぶさってくるのだ。過去というものは、人の後ろにある道ではない。――あるいは背中の傷であり、あるいは背中を守る事実である。あるいは人の背を押す力となり、あるいは人の肩を掴んで引き留める煩わしい鎖ともなる。
しばしば美化されるが、しばしば余計醜悪にも感じる。
どのような人の背にも過去は君臨している。過去は、現在や未来を正しく見ようとする人の手助けをしようとして、結果暴君となり、強制力を以ってして人を操ることもある。
過去は賢王ではない。本来ならば過去は、人を賢王に導くための従者である。
しかし人はしばしば、背に君臨した過去からの諫言 に、従順になってしまうものなのだ。
ソンジュの不幸とは孤独である。この場合の彼の過去とは、真の意味で愛されなかった過去の自分が、その広い背にしがみついて彼に不幸を感じさせていたのである。
そしてソンジュの孤独の根源の一つに、彼が持って生まれた特 異 な 点 ――“神の目”と呼ばれる薄い水色の瞳があった。
ソンジュは常日ごろから、この宿 命 の 特 異 な 目 を疎ましがってきたのである。
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