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かのアクアマリンによく似たソンジュの瞳は、透き通った深い海のように美しく輝いていた。
まるでその目の中に海の欠片 を嵌 め込んだかのように、あるいは雲一つない晴天の、澄み渡った高い青空を映し込んだ湖の水面のように、ソンジュの瞳はとても美しく煌めく、深い水色をしていた。
ソンジュの美しいアクアマリンの瞳に見つめられた者はみな、彼のその澄み渡る青い目の奥に、あるいは己一人に対しての欲望や色情や恋心が潜んでいやしないか、と必死になって探しはじめる。まるでまだ世に明らかになっていない、海底に沈んだ秘宝を血眼で探す、探索者のように。
しかし、ソンジュの瞳の奥の深海に辿り着いた者は、未 だかつて誰もいない。そこに秘宝があるのかないのかもわからぬ内に、彼の目の中の海の水面には拒絶の荒波が立ち、たちまち神の雷が探索者の船を撃つからだ。
ソンジュは沈み行く船の上で命乞いをする探索者を、そうして絶望している人々を、ただ冷たい伏し目で眺めていた。彼のその眼差しには、まるで屠殺 を仕事とする人のような無感情の努力があった。
そして彼は、その船が沈み切る前に目を瞑る。
ソンジュという青年がいつも孤独である理由は、自らの奥底を一目見ようという探索者を早いうちからそうして見限り、彼自身が己のまぶたで目を塞いでしまうせいである。
ソンジュは、その色というだけで特別な“神の目”であるとされた自分のアクアマリンの瞳を、『なんて厄 介 な 目 を持って生まれてきてしまったのだろう』と常々、不幸に思って生きてきた。――彼は己の“神の目”をこのように思っていた。あたかも生まれ持ってきた醜いアザ、あたかも生まれつき人より劣っている能力、あたかも生まれたときから欠けていた体のパーツ、……というのも、ソンジュのその“神の目”は、普遍的な他の“神の目”を持つ者のように、ただ色が貴石によく似ているというだけのことでは済まなかったのである。
ソンジュが八歳ごろのことである。
彼はあるとき、両親に連れられて初めて、彼にとっては退屈極まる夜会というものに出席した(もっとも、彼は九条ヲク家という名家に生まれてしまったため、今後こうした上流社会の馴れ合いにしばしば出席しなければならない宿命を背負っている)。
それは有象無象の上流階級の者ばかりを集めたダンスパーティーであった。誰かの豪邸のダンスホールを間借りして執り行われていたその会合で、少年は両親から、ただ見知らぬ大人たちへ「クジョウ・ヲク・ソンジュです。どうぞよろしくお願いいたします」とだけ挨拶するように言い付けられていた。
すなわち、他の元気な八歳の男の子たちのご多分に漏れず、ソンジュ少年もまた一言二言多いタイプの少年であった。そのために彼の両親は、この少年の、年にしては達者な口が起こす予測ならぬ波乱を危惧していたのである。
先刻ダンスのための音楽が終わったばかりの今、ホールの中央に空間を残して、あちこちに置かれた丸い卓を囲み談笑しているのは、年も体型もさまざま、色鮮やかで形さまざまなドレスを纏い着飾った華美な女たちと、黒や紺や濃い茶色や、落ち着いた色のダブルスーツを身に纏う男たちである。
そうした多人数のひそひそとした話し声、カツカツと女のヒールの音は甲高く、厚い革靴の底はコツコツとやや低い音、ホールの壁際で今もなおピアノで演奏されている、ゆったりとした優雅な旋律もよく聞こえてくる。
ソンジュ少年の聞こえすぎる耳なら、聞こうと思えばどこの卓の会話をも明瞭に盗み聞きすることは叶ったが、彼はそうしない。聞きたくないのだ。だから、あえてざわめきというようにしておいて、少年は退屈そうにぼんやりとしながら、父親の黒い長い脚が動くほうへとただ着いて行っていた。
しかし、そうして聞こえすぎる耳を持つソンジュ少年の目もまた、見えすぎるほどに何もかもを見透かしてしまうのだ。この少年は、尋常ではなく目敏い“神の目”を持って生まれてきてしまった。
例えば少年は、自分の両親と二組の夫婦がつつがなく、一見朗らかに会話している姿をただじっと眺めながら、こう訝 しく思っていた。
『なぜあの男の人と女の人は、夫婦ではないのに目が合うと、夫 婦 の よ う に 仲 良 さ そ う な 目 をするんだろう? あの人の隣にいるのは旦那さんのはずなのに、旦那さんへは少し怯えてる目をする。それからあの人の隣にいるのは、奥さんのはすだ(だって妻だと紹介していた!)。それなのに、どうしてあの男の人は、奥さんに対して申し訳なさそうな目をするのだろう?』
八歳のソンジュ少年は、まだ不倫というものを知らなかったのである。ましてやそれが一般的には悪いことだとさえ知らなかった少年は、天真の無垢さで、首を傾げた。
「どうしてあなたとあなたは、夫 婦 み た い な の ? すごく仲良しなんだね」
八歳ではまず無理もないが、少年はまだ上流社会の機知を得ていなかった。無邪気な素っ破抜きを繰り出した少年の、その無垢な水色の瞳に見比べられた男と女は、さあっと顔を青褪めさせた。
しかしもう一人ずつの男と女は、みるみる顔を真っ赤にしていた。そして、ソンジュ少年の父親は彼の小さな手をぐいっと力いっぱい引き、「黙りなさい」と険しい顔で少年を怒鳴りつけたのである。
ソンジュ少年は意味もわからず目を丸くしていたが、手の痛みに怯えた彼は、父親に手を引かれるまま歩かされた。彼の母親は体を返して夫に着いていきざま、二組の夫婦にペコペコしながら謝っていた。
少年の父は歩きながら、声を荒げて唸るように小言を言っている。「ごめんなさい、ごめんなさい」ソンジュ少年はまたやってしまったと、ただ「ごめんなさい」と繰り返していた。――『ぼく、また見 ち ゃ い け な い も の を 見 ち ゃ っ た んだ。もう見ないようにしなきゃ、いい子でいなきゃ。だって帰ったら、きっとまたお仕置きされる。』少年は恐ろしくなって身が竦むような思いがした。
しかしふっとソンジュ少年は、自分の小さなダブルの背にねっとりと張り付いてくる陰険な視線を感じて、歩きながらも己の幼い義務感に従い、背後へと振り返った。
それはソンジュ少年にとっての義 務 であった。見てはならないものを見てしまった、悪い子の自分が受けるべき罰なんだと、少年はしばしばそう感じていたのである。
そして今度もまた、その執拗な視線の主である女とソンジュ少年の目があった。今しがた少年に恥をかかされたばかりの女は、その憎い少年を忌々しげに睨み付けていた。
女がボソリと赤い唇で呪言を呟いた。「可愛くない子供」――しかしソンジュ少年にとって、こう言われるのは別段初めてのことでもなかった。だが彼は目を伏せた。
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