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人はなぜ、何としてでも初恋を我がものにしようと欲深にはなれないのか。
綺麗ぶって初恋とは儚きものだなどと語る者ほど、本当の意味では恋など経験していないのだろう。――初恋ばかりを美化する者は、自らの憧憬を美化しているだけだ。
よく恋に恋をしている、などというが、これはまさしくそれである。
恋は恋だ。
初恋もまた肉欲に塗れている。
恋は、恋なのだ。
初恋に伴う憧憬こそ、俺を欲深にする。
浅ましい獣ほどに肉欲が激しく掻き立てられて貪られ、貪り、愚かなほどに優しく満たされた時間を愛だと、恋だと語りたくなる微睡みのときに犯され、犯す。――征服したがり、征服されたがる。
愛に欲望を見出して支配しようとする獰猛な獣ほど、激しく武者震いする自分が誠実な愛に支配される喜びを知っているものだ。
恋とは、肉欲と精神、両側面ある。
よくこういうだろう――恋愛において女は精神性を重視するが、一方の男は肉欲を重視する。
しかし、そこには女も男もない。
単なる肉欲は単なる本能だ。性ホルモンによる悪魔の囁き、蛙足とヘコヘコ腰振りの直視しがたい滑稽さ、肉と肉の擦り合い自体には愛などない。
そして、単に精神性への追求がしたいなら、みなエゴイズムで生きている人間になど端 から期待するべきではない。人間の精神性など己を含めてたかが知れている。それならよほど、偶像化された神でも信じておけばよいのである。
しかし、そうした精神と肉体の撞着に葛藤するのが恋である。
滑稽な行為や精神に一種の美を見い出そうと我知らず努力してしまうのが、恋なのである。そして、一般的に初恋はその精神性ばかりだと思われがちだが、初恋だろうとなんだろうと恋は恋、肉欲と精神がねっとりと絡み合ったものが恋、初恋もまたもちろん恋なのだ。
ただ、経験則からいえることが一つある。
男が本気で恋をすると――精神に傅 くようになるのだ。
崇拝…どこまでも神 を 神 ら し く 扱うようになる。
それと同時に、もちろん激しく肉欲に身を焦がすことにもなる――何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――貴方を俺は、この胸の中で何度も犯した。
まだ抱きたい。
ずっと抱きたい。いじめたい。泣かせたい。犯したい。困らせたい。酷くしたい。ご褒美をあげたい。喘がせたい。たくさんイかせてあげたい。悦ばせたい。俺の与える快感に支配されて身悶えてほしい。貴方の美しい声でおねだりをしてほしい。たくさん焦らしてあげたい。たくさんキスをしたい。体の隅々まで見たい。一ミリも余すことなく体中にキスをしたい。ずっと見つめていてほしい。俺を求め、俺だけをその瞳に映していてほしい。俺、俺という存在で、中も外も頭も体も、精神も肉体も何もかも、すべてを俺で満たして支配して、魂から骨抜きにしてあげたい。
ずーっと貴方のナカにいたい――。
でも…ただただひたすら、愛撫をしていたい。
どうかそのまま、俺の腕の中で眠ってください…貴方の綺麗な肌に触れさせていただけるだけ、貴方の美しい寝顔を眺められるだけ、あどけなく緩んだ唇に好きに口付けられるだけ、…だけ?
それこそまさに僥倖 ではないか。
挿入なんて愚かなことだ!
なぜ我が身の悦楽をそこに求めるのか?
理解できない、なんと悍 ましい、なんと烏滸 がましい…マゾヒストの奴隷になれないサディストは、マゾヒストを奴隷にすることなどできない。
貴方の体にも、こうして俺はまた傅 いた。
貴方は、なんて綺麗な人なのだろう――。
ねえ、ユンファさん…――?
これこそが本当の恋だ。
紛い物の恋愛に執着しないのは当然である。
真の恋愛に執着することこそ、当然である。
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