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                   ちょうどそろそろ休憩がしたいと思っていた俺だが、他の友人三人には言い出せないままであった。  しかし、四人でぶらぶら「これからどうする、帰る?」なんて取り留めもなく誰もがいうが、誰もが決定打を持ち出さない怠惰な話をしながらあの図書室の前に来たとき、折しも図書室の対面にあったトイレを見た友人の一人がこともなげ、恥じるでもないあどけない調子でこう言ったのだ。   「わたしトイレに行ってくる」――すると他の友人二人もまた「俺も」「僕も行ってくる」と、俺以外の連れが全員、トイレに行ってしまった。      そうして一人だけ用のない俺は、ポツンと一人その場に取り残された。      ところで俺という十三歳の少年は、『果報は寝て待て』という言葉を信じていなかった。いやこの場合、背後に迫っていた果報を待たずして振り返り、なかば己の疲労の誘惑に負けたほうが正しかったのだが。  そして俺という少年は、運命なんてものを憎みはしても信じてはいなかった。冷めきったヒューマニズムを己が信条としていた俺は、神さえ()()()()だと思っていたのである。  しかしこのあと、十三歳のソンジュ少年の運命を変えた美しい神が現れる。――Amazing grace.  例えば無神論者が、神の思し召しとしか思えぬ救いを経験することよって神を信じ始めるように、このあとから俺は、神も運命というものも信じるようになる、いや、いっそ信じざるを得なくなるのである。     「…………」    さて俺は、だんだん目の前のトイレが罠に見えてきていた。  持て余した俺の脚は、今しがた訪れた数奇な運命の運びによって足枷をはめられ、動かすことを突然禁じられたようなものである。檻に入れられた獣のようにただそこでじっとしていろというのだ、おとなしく主人の帰りを待っていろと、せっかちで何かを待つことが大嫌いな俺に。    それで俺は、背後へと振り返った。  そして、先ほど歩いているときに目についた教室の扉へと迷わず歩いた。そこがあの高校の、図書室の扉だった。扉の上には、『図書室』との横長な看板があった。――一人になれそうな静かな場所だ。図書室ならば椅子もあるだろう。  ちょっと休むにはいいかと俺は、その図書室の扉へと歩み寄ったのである。   「……、…?」    そうしてその横に引けば開く、ベージュの扉の取っ手に俺が手を掛けたとき――耳の良い俺は、()()()。だから一旦は手を止めた。    はぁ、はぁ、という――熱に苦しんでいる人のようなあえかな吐息が、この図書室の中から聞こえてくる。  どうやらその人は、この教室の中に一人で居る。更にいって、机か何かに突っ伏しているらしい。その人の吐息が机にぶつかる、わずかな音がしたためにそうわかったのだ。そして扉の前に立つとほんのり、桃のような甘い匂いもした。    まあだからといっても俺は億せず、気にせず、遠慮などせず(もとより俺は遠慮など知らない傲岸不遜な少年だった)、休むにしたってその人と離れた場所に座るなり何なりすればよいと、もう迷うことなくその図書室の扉をガラリと横に引いて開けた。そしてやや中へと進んで、後ろ手に扉を閉めた。   「……ぅ、…」    すると入ってすぐ、俺は甘露の池にドボンと頭から落ちたのかと思った。――それはもちろん比喩である。濃い完熟桃の濃厚な甘い香りと、上品で(そそ)られる高級バターの香りが混じった湿り気が、俺の全身に水気のように纏わりついてきた。俺は一瞬息を止めた。  人はたかだか匂いに? と思うだろうが、肺にまともにこの濃い匂いを満たしてしまえば、嗅覚の敏感な俺はその匂いに溺れそうだと思ったのである。目に滲みてしばしばとするほど濃く甘い匂いに、俺は目をしばたたかせながら驚いた。  いや、その匂いと共に訪れた鋭い視線にも驚いた。扉の前にいる俺をキッと睨み付けてきた目と目が合った。   「……、…」   「……――。」   『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――俺はにわかに、その美貌に心を奪われた。  窓辺にある横長の白い机、その席に座っている美少年、いや、十三歳の俺にしてみれば色白の美しい青年が、入り口に立ちすくんでいる俺を睨み付けてきていたのだ。  きっと彼は、今し方まで机に突っ伏して苦しんでいた人だろう。すぐに俺はそう察した。    俺がガラリと図書室の扉を開けて入ってきた気配に、彼は慌てて頭を上げた。そして彼は何者かと、出入り口に立つ俺を睨み付けてきたのだ。――なぜか俺の来訪に驚くほど敏感になって、彼はとても迷惑そうである。そのぎゅうっと目の周りに皺が寄るほど細められた目は、『何だよお前、早く出て行けよ』と、テリトリーに侵入してきた者を威嚇する高潔な狼のような、怒りが深い赤紫に燃えているかのような瞳であった。    そして俺は、ハッと思い出した。  それから俺は、十二のころからしばしば見てきた夢の一つの映像と――十三歳となった今に現実で見ているこの光景が、なぜか不思議とぴったり重なったこの奇跡に、言いしれぬ感動を覚えた。    デジャヴというのだろうか。摩訶不思議とも奇跡ともよく似ているが、まさか夢と現実が重なったこの瞬間に俺は、なぜか真新しさと懐かしさ、高揚と寂寞、悲嘆と驚嘆、その赤と青の両義を全身で味わったのである。  そしてその青と赤はにわかに混ざり合い、この美青年の瞳の色のような赤紫色に燃えて、俺の目を潤ませた。    奇跡、運命、夢、神、…ありもしないと決め付けていたものに現実で出逢った俺は、全身の肌にゾクゾクとした快感のような悪寒のようなものを感じ、思わず二の腕をさすりたくなるほどの鳥肌に震えながら、息さえできずにぼんやり、そこで立ち竦んだ。    しかし、進みもしないが出ても行かない俺をしばらくじっとりと睨み付けていた彼は、平静を装って片手で頬杖をつき、ふいっとそばにある窓のほうへそっぽを向いた。そのにべもなき素振りでさえ、どこか気高く美しい印象があった。      そう――この美貌の少年こそがもちろん、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)その人である。         

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