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――くらくらと眩暈がする。俺は次第に酔い始めた。
ユンファさんのその、筆舌に尽くしがたい美貌にはもちろん、この狭い図書室という空間にたっぷり充満する完熟桃の甘い香りに、ミルクやバニラ、いや、ちょうどよく焦げた、高級なバター。乳臭いというのではなく、ひとたび嗅げば、誰しもがその濃厚な甘い脂を想像して涎を垂らすような、上品なバターの香りだ。
――まるで桃のタルト。
今の俺も、また十三歳の俺も、大好きなデザートだ。
それもまた運命に違いない。――今では俺が、一番好きなデザートに昇格したのが桃のタルトである。
それはともかくとしても、この甘い桃のタルトの香りは言うまでもなく、オメガ排卵期中のオメガ――つまりユンファさんが香らせている、フェロモンの香りだ。
しかしこの当時の俺は、まだ十三歳の少年だった。
つまりこのときの俺は、セックスというものは知っていたし、陰茎を持つ者と膣を持つ者がそれをすれば子供ができるということも知っていた、恋だとか愛だとかの概念もまあ知っていたし、自分がアルファ男性というカテゴリに属していることも知っていた。が――まだ学校の性教育では、オメガ排卵期というものをギ リ ギ リ 習っていない子供であった。
であるから俺は、この濃厚な甘い匂いが人の――ユンファさんの――体臭だとはまだ気が付いていなかったのだ。…もちろん香りの出処を訝しむ気持ちはあったし、実際彼に近寄るともっと濃くなった香りには驚嘆したものだが、それより何よりも俺は、この美しいユンファさんの存在に気を取られていた。
彼は俺を見ることもないが、早く出て行けよ、というような、俺を邪険にしている雰囲気を醸し出している。しかし俺は陶然として、そんな彼にもただ見惚れていたのだ。
「…………」
「……、…」
『なんて綺麗な人だろう? いや、人なのかもわからない。神様みたいだ、それくらいこの人は綺麗だ。』
俺は訝しくなるほどそう考えた。
『いつも誰かが誰かを「綺麗だ」と褒めるとき、大概そう言われる相手は女だ。でもこれほどに「綺麗だ」という形容が似合う人は、この人以外にはきっといない。少なくとも僕は、この人にしか「綺麗だ」なんて言いたくない。』
『わかった。』
すぐに俺はわかった。
『ああ僕、恋をしちゃったんだ。
そういえば僕は、あの夢の中でもこの人に恋をして、それで告白して、恋人になって、それから結婚した。そっか。僕はこの人に恋をしたんだ。なら僕は、この人と結婚したい。この人と僕は結婚するべきなんだよ、僕は恋をしたんだから。それは、夢のなかで僕に神託を授けた神様が定めた運命なんだから――。』
さて、俺というのはアルファで生まれていればこそ、興味を惹かれた相手に対して遠慮するという思考がなかった。
そもそも遠慮などしなくてもよい環境に生まれた俺が、怖いもの知らずの若い少年、それも殊 に十三歳の傍若無人だった俺が、そこで遠慮などするわけもない。
たとえその相手が花も恥じらう美形であったとしても、俺には何も臆するところはまるでなかったのである。
であればこそ俺は、その美青年、つまり俺の気配を疎ましがりながらも、ただ窓の外をぼんやり眺めているユンファさんへと、スタスタ迷いなく歩み寄った。俺の足取りはいきいきとしてとても軽かった。
俺は足早に、机に頬杖をついて椅子に座っているその人の前、机を挟んだ彼の前に立つと、
「あの、こんにちは」
そう屈託もなく、その綺麗な人へ話しかけた。
するとその人――ユンファさんは少し嫌な顔をして俺を見上げ、そして俺と目が合うなりその美貌から表情を消し、すうっと目を細めた。――冷ややかなユンファさんの無表情に、俺は生まれて初めてゾクリとした。
怯えたのか、その人形のように端正な無表情があまりにも美しかったからか、あるいは“運命のつがい”の瞳に惚れ直したのか、まあどれにしても――俺は彼の前に立って鼓動を速め、緊張している自分に気が付いた。
「…こんにちは」
ただ、ユンファさんはそうして静かながら、挨拶は返してくれた。――美しい声だった。男性ならではの低さはもちろんあるが、夏の日に吹いた涼風のような響きがある、爽やかで優しく、それでいてどこか華やかな声だ。
――濃い、桃の香り。
俺はハッとした。――この桃のタルトのような匂いは、この人から不思議と香っていたらしいと、驚いた。
そして感動すら覚えた。
――やっぱりこの人、人間じゃないんだ!
俺は知らなかった。まだ夢見る子供であったので、そもそもオメガのフェロモンの存在を知らなかったのである。
ただ、俺はここまでの人生で一番緊張して、手汗までかいていたが――だからといって尻尾を巻いて逃げるような少年でもなく、ただじっと獲物から目を逸らさない獣のように、俺はユンファさんの透き通るような薄紫色の瞳を見つめた。…ただ、本当に自然と目を奪われる綺麗な瞳ではあったが、しかしどうも依然として夢見がちにぼんやりとしており、俺のことはよく見えていないような目付きだった。
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