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「……あの、ここの生徒ですか」
俺が気を遣った声で静かに尋ねると、ユンファさんはにべもなく低い声で「うん」と面倒そうに頷いた。
「…なら、もしよかったら……」
しかし、その「もしよかったら」なんてセリフのあとを俺は、正直何も考えていなかった。――「もしよかったら…」何に誘うつもりだったのか、ド忘れしたのではなく、そもそもはじめからなんのプランもなかったのだ。
「…………」
「…あぁ、何…?」
ユンファさんの目を見たまま、それきり固まって黙り込む俺を静かに急かした彼は、パチパチと気だるげな切れ長のまぶたをしばたたかせて俺を見ていた。
「……、あの…だ、大丈夫ですか?」
俺はよかったら…のあと、彼を何に誘ったらよいのかもわからず――そうしてユンファさんにとっさ俺は、「(熱があるようだけれど)大丈夫ですか?」と、聞いたのだ。
しかし当然ながら、俺のこの質問には肝心の主語が抜けていたために、ユンファさんは訝しげな顔をした。
「…は…?」
「……あのだから、熱があるんじゃないですか…?」
俺がそう言い直した途端――ユンファさんはみるみる険しい顔になり、顔を真っ赤にした。…それどころか、彼のやわらかそうな白い耳までカッと赤く染まり、俺はギロリと凄まれた。
初めてこの距離で人に睨まれた俺は、ぐっと胸が詰まった。しかし俺の“神の目”は、その瞳に明らかな怒りを見付けられはしたものの、その怒りの意味まではわからなかった。
俺は面食らってなぜ、と驚いた。睨まれたことにも驚いたが、何よりも俺は、ただ彼の心配をしただけなのに、などと、このとき仕出かしてしまった余 計 な お 世 話 に気が付かなかったのである。
このときの俺はまるでわかっていなかった。
ユンファさんがオメガ属であることもそうだ――そもそもこのときの俺は、その怜悧げな容姿からうっすらユンファさんのことをアルファ属 だと勘違いしていた。“運命のつがい”というのは誠ではなく、もっとも俗 世 的 な 意 味 で思ったことだった(のだが、実際誠 で あ っ た )――が、俺はどだいオメガ排卵期というものをよくは知らなかったのである。
だからこそこのときは、デリカシーに欠けた質問をしたつもりも全くなかった――。
「なっないよ熱なんか、別に…」
そう意地になって声を張ったユンファさんは、その実俺から目を逸らすことはしなかった。――むしろ俺の目を全く遠慮などせず、ギッと睨み上げたまま、
「…君、僕になんの用があってここに来たんだ? 本当は此処、関係者以外入っちゃいけないんだけど」
と、低く俺を脅すように――つまり彼は、用がないなら早く出て行けよ、と示してきた。
ただ俺は、それこそユンファさんがなぜか怒り、そしてなぜか俺を邪険にして退室を促している――ということはわかっていても、そのな ぜ な の か はわからないで、呆然として突っ立っていた。それでいて出て行くつもりなど毛頭ない。
なぜなら俺は、これでユンファさんを口説こうとしていたのである。
しかし、何なら俺は、こうして自分から誰かと仲良くなりたいと近寄ったのも、また当然、こうして友好的に――とはいえ、もちろん友 人 と し て 仲良くなりたいわけではなかったが――声をかけたのも、これが初めてのことであったのだ。そしてその結果というのはこのように惨敗、ユンファさんにはこうして強く拒まれてしまった。
「…………」
「…はぁ…、き、君…なあ、何? もう本当、本当にもう早く出て行って。寝ることもできないじゃないか、…僕は疲れたから、ここで、ちょっと休んでるんだよ…、もちろん、もちろん僕は先生に許可をもらってね。でも、君は怒られる前に早く出て行きなよ」
煩わしいため息ののち迷惑そうにそう言って、ユンファさんは出口を顎でしゃくった。――ただ俺は、「疲れたから休んでる」という理由にはどうも違和感があった。つまり、彼にその場を取り繕うばかりの嘘を言われたのだと、そればかりはわかったのだ。
事実、ユンファさんは疲れたからここで休んでいた、というわけではないのだろう。文化祭はフィナーレを迎えようとしている、その時分にわざわざ此処で休憩しているくらいなら、さっさと家に帰って休んだほうがいいと判断するのが普通である。
となれば、おそらくは予想していなかったタイミングでオメガ排卵期が来てしまったため、此処で迎えなり養護教諭なりを待っていたか、あるいは人と会わないでひっそり家に帰れるようにと、ここで人が帰るのを(文化祭のフィナーレの終わりを)待っていたか――今の俺が推測するに、そういったところだったんじゃないだろうか。
ただし、このときの俺の推測はそこになかった。――オメガ排卵期がなんたるかを知らなかったために、風邪を引いているプライドの高い人が、年下なんかに心配されたと羞恥心を覚え、虚勢を張って無理をしているように見えていた。
「…あの、無理してませんか? 先生とか、人呼んで…」
そう言いかけた俺の言葉に被さったのは、――ガタリと急に立ち上がった、ユンファさんのその挙動だった。
「やめてよ」
険しい顔をして俺を睨んでくるユンファさんは、――十三歳の159センチだった俺と、170後半に差し掛かっていたらしい十六歳の彼じゃ当然だが――俺よりも頭一個分以上背が高く、しっかり俺を見下げるようであった。その潤んで赤らんだ目には明らかな羞恥心と、俺への迷惑そうな色があった。
それにもまして彼は、色白、顔立ちも端正、華奢で長めの首をしていながら、肩幅は広かった。もちろん過剰な広さではなく、男の黄金比率というような広さだ。肩部分のやや尖ったブレザーを着ていれば尚だろう、その広い肩はより彼の体を大きく見せた。
すると俺は、ユンファさんの顔がいやに遠くなった気がした。そして無性に悔しくなり、苛ついて眉を顰めた。
が――それにも勝って俺は、不思議で堪らなかったのである。
「…えっなぜですか…? でも、体調が悪いなら……」
俺は何もわかっていなかった。――『やっぱり年下に心配されてプライドを傷付けられたんだな』と俺は思った(俺が生まれたときから属している条ヲク家が、年長を敬う習慣の濃い集団だったせいだ)が、だからこそ俺は「先生など年上の人を呼んでこようか?」と言いかけたのだ。愚かにも機知に富んだつもりであった。つまりそれによって、彼の誇りを気遣いながらも更に優しくしたつもりだったのだ。
ましてや風邪を引いて、体調を悪くしていることは別に恥ずかしいことでも何でもないじゃないかと、本当に意味がわからなかった。
「悪くないって言ってるだろ、もう出てけよ、本当、…」
「……、…?」
『なぜ僕はただ優しくしただけなのに、この人にここまで嫌われてしまったんだろう?』――解せない疑問と拒まれたショック、訝しく固まっている俺。俺をぼやけた目を細めて睨んでくるユンファさん。
「…………」
「…………」
きょとんとした俺の目をしばしただ睨んでいたユンファさんは、ややあってから「もういい」と不機嫌そうにボソリとこぼして顔を伏せ、
「…わかった…君が出て行かないなら、僕が出て行く。」
と、体をかがめて、足元に置いていたらしいカバンを引っ掴み、それの肩紐を肩にかけ、横長の机を抜けようと体を横へ向けた。
「……っ? 何だよほんっとに、…何?」
「…あ…」
が、俺が咄嗟に前から片腕を伸ばし――ユンファさんの、濃紺のブレザーを纏う二の腕をがっしりと強く掴んで引き留めてしまうと、彼の横顔はふっと俺へ振り向き、その人の険しい顔はまた俺へ向いた。
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