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                      「なあ、僕に用があるなら早く言ってくれる?」    取り付く島もない高潔な人――。  ぎゅうっとまぶたが閉じそうなほど細められた目、すると翳り深い群青色となった瞳、寄った端正な眉、そうしてユンファさんに睨まれた俺には――はっきりいって、此処を立ち去ろうとするその人との()()()()()が頭に()ぎったばかりに、ただ俺は瞬時に、釣られて、本能的に、直感的に、この美しい青年を引き留めてしまったというだけのことだった。  要するにこのときの俺には、彼を引き留めるだけの明確な理由も用もなかった、ということである。   「…あ、あの…」   「おい、()()()()()。もうこんなのセクハラだぞ、君。」   「え、…え…?」    セクハラ――セクシャルハラスメント。  俺を上から押し付けるような低い声で、このとき彼に言われた「セクハラだぞ」という言葉…これがいまだに、俺は()()()()()()()()に思えている。…ちょっとしたトラウマとでもいうべきか、俺はいまだに怯えているのだ、ユンファさんが放ったこの「セクハラだ」に。  なぜならこれは要するに、「お前の下心気色悪いぞ、法に訴えるからな」というほど迷惑がられ、嫌われてしまった、ということの証左ともいえるセリフに違いないからである。 「…そ、そんな、セクハラなんて…そんなつもりなくて、僕……」    キュゥゥ…勝手に喉が鳴った(ちなみにこのときは今よりまだマシだ。なぜなら唸るも吠えるも、まだ初めての“狼化”も迎えていない声変わり前(子狼段階)ではできなかったためである)。――かなりショックであった。  ましてや俺は、()()()()()()()()()()()など、意外に思うほどなかった。…とはいえ恋をしている以上、その下心というのは無自覚的なところでも図星ではあるわけである。  まあ今の俺ならばわかるが、このときのユンファさんはオメガ排卵期中であった。そしてその期間中に――十三歳、背も低く声変わりもしていない少年相手とはいえ――二人きり、しかもしつこくされていたともなれば「セクハラだぞ」という言葉が、ユンファさんの口を突いて出てきたことは全く頷ける話だろう。    だがこのときの俺にはそもそも、ユンファさんが今()()()()()()()が起きている状態、という認識がなかった。   「セクハラしたかったんじゃありません、ただ僕は…」   「じゃあ何ですか。」    明らかに苛立っているユンファさんは、ぎゅっと眉間に深い皺を刻んで俺を見下ろしていた。――俺はその人の、その鋭い切れ長が向けてくる、至って俺が邪魔そうな、迷惑そうな眼差しが、おそらくかなりショックだったのだろう。……頭が真っ白になったのだ。  たしかに俺は、人にチヤホヤされることにはうんざりしていた。――しかしチヤホヤされてきたからこそか、人に、こんな邪険な態度を面と向かってされた経験がなかったのだ。    驚きにも近く――ショックにも近い呆然とした状態で、俺は思わず、   「僕…実は、アルファなんですけど」    と、我ながら意味のわからないことを、イライラしている様子のユンファさんに言ってしまった。ただうっすらとこれは、彼に親近感を覚えてほしかったというのがある。    このときまで俺はユンファさんを、同じアルファ属だと勘違いしていたためだ。そしてアルファは、アルファとたむろする習性があるものだと、このときの俺はそう考えていた。――なぜなら俺は、しばしばそうした風潮のある、条ヲク家のコミュニティで生まれ育ったからである。  しかし俺の思惑は見事に外れた。彼は俺に親近感を覚えるどころか、はーっと神経質なため息で俺を威圧してきながら、呆れたようにぐるりと目玉を回し、   「あぁそう。はーん…で。だから何?」   「……え」    俺は呆気に取られた。しかしそれ以上に苛立つ自分もいた。…初めての拒否、初めて自分に盾突くような人、何もかもがまた初めての経験だ。アルファだと告げて、「だから何?」なんてにべもなく返されるとは。――しかもユンファさんは、自分より年下の、それも自分より背の低い少年であろうが、たしかに本能としてアルファに畏怖観念を持つであろう、のちに本人が言うとおりオメガだったのだ。    俺はムッとしていたかもしれない。  そのような俺を鏡としてか、ユンファさんもまたムッとしイライラした様子で興奮気味に、こうまくし立ててきた。   「だからなんなんだよ。僕は、だから何だって君に聞いてるんだけど? なあ、なに、君がアルファだろうが何だろうが僕に何の関係があるんだ。何の意味があってそんなこと言うんだ、君、意味わからないよ、――僕はオメガだけど? それで? だから。何。なに、まさか君は僕を襲おうとでもしてるってのか、二人っきりでオメガとアルファがここにいるからって、何か起こる? いや、悪いけど僕は、君みたいなちっこい少年に力で負けるほどか弱くも何ともないんだよ。何がアルファだ本当に、僕にはそんなこと何にも関係ないんだ。だろ?」   「……、……」    何がアルファだよ、君がアルファだろうが何だろうが、関係ないよ――この言葉は目の覚めるような電撃だ。  俺は自分の小さな背をよくよく感じた、そしてそれがつくづく恥ずかしかった。…これは自ら額を、机か何かの鋭利な角にぶつけたようだった。すなわちユンファさんのこれは、俺に自爆の羞恥を覚えさせたのである。   「…アルファだオメガだベータだって、そんなのが必要なのはせいぜい保健証くらいのもんだ。じゃあ君の名刺には()()()()()()()()()()()()なんて書いてるのか? だとしたら僕は君を軽蔑するよ。馬鹿にしてるのか、オメガの僕を。それとも何だ? まさか本当に、その年で僕を襲おうとでもしてるってのかよ。――今僕にオメガ排卵期が来てるからって? はぁ…いいよ、できるもんならやってみろ。張っ倒してやる」   「…え? ぃ、いや、襲おうとなんかしてません、…」    オメガ排卵期? 何か聞いたことはあるような――とは思ったのだが、その辺りの性教育も(ある意味では()()()())まだだったこのときの俺は、それに対しては薄らぼんやり、()()()()()()()()()()()()という以上の認識はなかったのである。  どだい、ヤマトでの性教育の始まりは小学校高学年からではあるものの、少数派、かつ時代背景的にも複雑なところのあるオメガ属に関しての性教育は、中二の俺でもまだこれからだったのだ――世間で優先されるのはどうしても多数派(ベータ属)である――。  但し…ちなみに何が()()()だったかというと、実はこの数週間後に俺は、いよいよそのオメガ排卵期についての授業を受けることとなった。  そのときの俺が、『もう少しだけ早くこれを習っていれば…』などと悔やんだのは、言うまでもないことである。         

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