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                   走り出した俺は、犬のように彼の匂いを追った。  もちろん地面に鼻をくっつけてクンクン、なんて滑稽な真似はしていない。――そもそもオメガ排卵期のフェロモンは、たとえ初日の淡いものであっても、アルファの俺にはその必要なく確かに追えるほど独特なものだった。    俺はついぞ、恋愛など滑稽で馬鹿馬鹿しいものだと思っていた。男にしろ女にしろ、恋だ愛だに溺れては骨抜きの愚かな人になるのだと考えていた。俺が悪気なく不倫関係を暴き出してしまったあの二人とても、結局は性欲に負けたさもしく馬鹿な動物だと思っていたのだ。そして彼らは別れた。誰とって、伴侶とも、不倫相手ともだ。  自らの享楽的な過ちによって孤独になった上、彼らはこれから先、死ぬまで不倫という罪を犯した淫乱、ある種のナルシシズムと背徳に陶酔した愚か者、煮え湯を伴侶に飲ませた裏切り者、そういった烙印(らくいん)を押された。すると彼らは、世間から白い目で見られ続ける人生を送ることになったのだと、俺は内心彼らを嘲笑っていた。    そう思い至る要因は何も彼らばかりのことではないが、少なからずこのときの俺は、あまりに見るに耐えない恋人たちばかりを見てきていたために、恋愛というものには酷く幻滅していたのだ。    運命なんて無いと思っていた。神なんていないと思っていた。愛なんて無いと思っていた。恋なんてしないと決めていた。――俺のそれらは、あの夢の中だけで十分事足りると、俺は諦めていた。    ただ俺の人生にあるものは、運命でもなく、神でもなく、愛もなく恋もない、偶然目の前に置かれて(うしお)のように満ちては引いてゆく、味気ない不幸のみだと思っていた。――()いで一安心、すると次の瞬間には迫ってくる不幸にまた息を止め、しかし逃げることも顔を顰めることも許されず、「何も問題はありません」暗く凍えそうな海の底で目を瞑り、そう自分に言い聞かせる。    その繰り出しこそが、俺の人生なのだと思っていた。    昨日までは。いや、ついさっきまでは。  こうして衝動に身を任せ、こうして自ら運命を嗅ぎ分けようと鼻を効かせ、こうしてわざわざ走って運命を追うようなこと、自分がするとは露ほども思っていなかった。    ――俺は幸福を追い求めていた。    あの神々しい美貌は、あの月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という美青年は、ある意味で俺にとっては目の毒だった。明日にはどうなるかもわからない危ないものを求めて、俺はただ一心不乱に走っているのだ――それは十三歳の俺も実際そうだが、今の俺もまた比喩的にそうである――。  俺は走りながら片手を前に伸ばした。彼の濃紺のブレザーを纏う背中が見えたなら、少しでも早くそれの裾を掴みたかった。俺は獲物を追う狼のように必死になって、あの甘い桃の香を走って追っていた。    目が覚めたようだった。  夢に、目を覚まされたようだった。    僕は操り人形じゃない。  そうだった、僕は――生きている、…意思のある人だ。    心臓がいきいきと動いているのをよく感じた。  俺の胸にドクドクと力強い鼓動を生んだのは、幸福への追求だった。――ユンファさんだった。    何も関係ない。  九条ヲク家の長男。九条ヲク家を継ぐソンジュ。  九条ヲク家の次期当主。アルファ属。  ――九条(クジョウ)(ヲク)松樹(ソンジュ)。    あの人は、何も関係ないと言った。  関係ないと接してくれた。彼は本当に美しかった。  こんなに美しい人は初めて見た。…気高く、その()()()()()なんかしない人だった。  ――その生まれ持った()()に縛られている俺に対して、俺を、ただの一人の人…少年として、俺のことを等身大で認めてくれた。    俺の足取りは軽かった。  しがらみから解放されたかのようだった。  ユンファさんは、あの薄紫色の瞳によって俺にカタルシスを与えた。彼の優しく聡明な目に解き放たれた俺の心は、とても軽かった。    初めて知った。自分に、心臓があることを。  俺の心は動いている。今やっと動き始めた。  こんなことをいえば、人は馬鹿だと思うだろう。格好付けていると思うかもしれない。そんなことは当たり前だ、人にはみんな心臓があって、心があり、感情があるのだからとみな、俺のことを鼻で笑うかもしれない。    だが俺は、心によって動く心臓を知らなかった。俺の心臓はもともと動きも鈍く腐って、まるで腐臭を漂わせた死にかけの動物の死骸のようだった。いや、有ったのだ。もともと有ったものだ。  しかし――これまではそれに、目を塞いできたから。    ユンファさんに突き動かされた心臓に、熱い血が全身へと巡って、俺はやっと若さを知った。  心のままに走っている自分が、何かとても爽快で気持ち良かった。清々しかった。   「……はぁ、…――ははは……っ」      俺は、生きていた。  俺は今日生まれたのだ――貴方が俺に、新たな可愛い心臓をくれたお陰で。         

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