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                   “「……。いや、じゃあ例えばだけど君、お兄さんとキスなんかできるの? さすがにしたいとは思わないだろ、……」”――だって?     「…できるよ…したい。……」    俺はゆるくこちらを向いているユンファさんの顔に、おもむろに顔を寄せていった。――貴方となら僕は、いくらでもキスがしたい。…なかばは男の矜持による意地である。もうなかば、単なる男の欲である。  しかし息のかかる距離まで顔を寄せると、ユンファさんの極小さな毛穴やうぶ毛が見えて、辛抱たまらなくなった。俺は怖じ気づきそうになり、目測を誤らないように彼の赤い唇を一瞥してから、きゅっと目を瞑った。   「……、…」    そして俺はそっと、ユンファさんの赤くふくよかな唇に、唇を重ねた。彼の唇は熱かった。  自分の震えている唇を、はじめはそっと重ねただけである。しかし次には大胆になって、ぐっと押し当ててみた。…自然の理をせき止めるよう、俺は息を止めていた。  しっとりと潤っている彼の唇は力も抜けているためか、とても柔らかかった。――よく唇をマシュマロのようだとかいうが、それよりも無防備なユンファさんの唇はもっと柔らかく、もっと弾力がなかった。    強いていえば、粉をまぶす前の求肥のようである。  それこそ俺が慣れない動きで唇を押し付けると、ユンファさんの肉厚な唇はふにゅりと潰れるようにして形を変えたほどだ。    ちなみに俺は、このとき初めてキスをした。    要するに、これが()()()()()()ファーストキスである。  そして、それによって何が言いたいかというと、このときの俺はまだ唇を食むも舌を絡めるも、何も知らない初心(うぶ)な少年であった。つまり、これが当時の俺にとっての最高峰かつ精一杯のキスであった、ということである。    俺は目を瞑り、唇を押し当て続けた。眉が寄る。  ベッドのスプリングが鳴らないようそっとしかそれに手を着けず、ベッドに横たわる彼の位置に合わせてキスをしているため、つまり無理に頭を低くしているため、ぷるぷると強張った肩や首筋が震えている。    俺はそうしながら、叶うなら眠り姫のおとぎ話のように、この口付けでユンファさんが目を覚ますことをどこかで望んでいた。  それで彼が目を覚ませば、間違いなく俺たちは神に祝福されていると、そう確信できるような気がしたからだ。  恋心とは漠然とした不安が付きものである。どれほど愛や奇跡や運命を確信していたとしても、何か自分をなだめて安堵させてくれる外的要因を探してしまうものなのだ。  しかしもちろんユンファさんは、このキスで眠り姫のように、あるいは白雪姫のように目を覚ますことなどなかったのだが――。     「……ん……」    ややあってからユンファさんは俺の口付けに、あまりにもわずかな音をもらした。鼻からのような、喉が鳴っただけのような、吐息に声が乗っただけのような――しかしとても色っぽい声をもらし、眠りながらも鬱陶しかったか、コテンと顔を俺から真反対の横へ倒した。  すると俺の唇が、ユンファさんの唇の端から、そのしっとりと汗ばんだ頬の下のほうへとすべった。  少しだけ舐めてみた――甘い。興奮に涙ぐむ。甘い。    ――甘い! 「っんぅ、…んん……」    煩わしそうな声をもらしたユンファさん――背徳感、泣きそうなほど切なく興奮した俺は、同時に射精までしていた。ちなみにそれが俺の精通だった。俺は官能を知った。  顔を引いてみれば、流れるような白い首筋が筋張っていて、とても色っぽかった。…しかし、眉を顰めて頬を赤らめているその人に、また燃え盛るような熱を思い出した。  つーっとその白い首筋に汗の雫が伝い、彼の喉仏の上に乗った。――もうやむにやまれず、俺はその甘露を舐めとった。   「…ん……っ」   「……、ふふふ……」    ユンファさんはぴくん、と反応した。可愛い。  とても、とても…甘かった――。   「……、…ふふ……」    その矢先、ユンファさんは何か眠ったままニヤリとした。そして自分の首元に顔をうずめた俺の後ろ頭を、優しく力ない手でなで、なでとして――こう寝言を言った。   「んぅ……リリ…もう、ちょっと…寝かせて……」    慈愛の微笑みを浮かべた美しい人が、そうして優しく俺の頭を撫でたのだ。――色っぽくも清らかであった。  この流れるような白い首筋にむしゃぶりつきたくて堪らなくなった。しかしやめた。…想像しただけでまた火花が散ったからだ。そして散った火花は、俺の細く短い内ももを伝って熱く濡らした。その筋道は火傷(やけど)したようにヒリヒリと熱かった。     「はは…、決めた……」      俺はこのときに決めたのだ。      僕は小説家になる。  そして、貴方と結婚する。    十三歳の俺には、これといった夢もなかった。  何になりたいとか何がしたいだとか、俺の人生の指標などもう既に、勝手に人に決められていた。  そうした夢を見て許されるのは、この世の中でベータ属のみである。    アルファ属…それも“神の目”を持って九条ヲク家に生まれた俺の人生は、このときから十三年前の、一月十九日の時点ですべてが宿命付けられていた。――松樹(ソンジュ)という名前もそうだ。九条ヲク家の者はみな、誕生花および誕生木によってその名を決められるのである。言うまでもなく俺の誕生花は松だ(尚、木は他にもいくつかあったが、神の依代(よりしろ)になるという“影向(ようごう)の松”から松が選ばれた)。    付き合う人間、食事の量と内容、一日のスケジュールは分刻み、勉強をする内容も、話すべき言葉、取るべき姿勢、浮かべるべき表情、着るべき服、持つべき道具、通う学校、……九条ヲク家の次期当主というのを基準にして、このアクアマリン()の瞳を持って生まれてしまった俺の人生は、そうしてもう全てがとうに厳密に決められていたのだ。  そんな俺にはこれまで将来の夢などなかった。  この頃においても漠然と、()()()()()()()()()()()()()に就くのだとだけ未来を思い浮かべ、そしてそれをただ粛々と受け入れていたのだ。    そうした限りなく人ではない、ほとんど神に近しい無欲さで死にながら生きていた俺が――美しい男神に影響されて生き返り、信仰によって人としての欲を覚えてしまった。      そうして俺は小説家を志した。  ユンファさんと結婚するためだ。      僕は貴方という夢を見つけました。  僕の夢は叶うでしょうか?  いつかまた僕は、大人になった貴方に会いに行きます。  だって大人になったら、貴方は僕と結婚してくれるんでしょう?  だから約束します。僕が大人になったら絶対に、僕は貴方をお迎えにあがります。    だけどその前に、貴方は僕のことを見つけておいてください。    僕、貴方が好きな小説を書くことにしたのです。  約束します。僕は絶対に、貴方が面白いと認めてくれる本を書いて、貴方の心を手に入れる。――そして僕は絶対に、立派な小説家になります。貴方がもう僕のことを馬鹿になんかできないくらい、凄く立派な男になります。  僕は絶対にこれから、貴方に甘えてもらえるような背の高い、体の大きな、懐の深い男になります。    貴方が欲しい。  貴方が欲しい。僕は貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。貴方が欲しい。    ――僕は絶対に、貴方を手に入れる。  大人になったら絶対に僕と結婚してください。  だってそれが神に決められた運命ですから、僕と結婚したら、貴方も絶対に幸せになれます。僕は今日確信しました。僕たちが一つ(つがい)になるという運命は、生まれたときから決定付けられていたのです。神様に――。      俺のほうがよっぽど目が覚めた。  夢に目覚めた。――絶えず押し迫ってくる不幸を諦めて死んでいた操り人形が、叶うかどうかもわからぬ幸福を求めて生に目を覚ましたのだ。    俺はむくむくと湧き上がってくる不純な動機の創作意欲に、屈託ない熱意と真っ直ぐな意志を得てして意気揚々と、(きびす)を返した。  しかしユンファさんは俺の背後、「ふふ…」と幸せそうに笑った。俺は起きたのかと釣られてまた、背後へと振り返った。   「…………」   「…………」    彼はまだ眠っていた。  どうしたって繊細な艶を放つ黒いまつ毛が美しい。しかし俺といたときより、随分幸せそうな笑みが朗らかに彼の美貌に広がっている。彼の頭の下にある無機質な枕に、彼の微笑みに触れている木綿の白い枕カバーにまで嫉妬した。     「どんな夢を、見ているの。僕と同じ夢……?」      違うことはわかっていたが、嫉妬した俺は呟くように彼の寝顔へそう聞いた。もちろん返答はなかった。    やがては僕と同じ夢を見てほしい。  いや、きっといつか肩を並べて、この人は僕と同じ夢を見てくれる。――とろけるように幸せな夢を、永遠に、僕と二人で……二人っきりで。      貴方は――ユメミ。  僕は夢を()()たい人――カナエ。         

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